2001年9月の米同時多発テロ後、アフガニスタンでは米軍と武装勢力との戦闘などで治安が悪化。08年8月には同会の伊藤和也さん(当時31)が武装集団に拉致され、殺された。同会は10カ所以上あった診療所の大半を閉め、日本人メンバーを引き揚げた。
それでも中村さんは現地に残り、03年に始めた東部クナール川下流域での用水路建設を継続。新たな用水路の建設にも乗り出し、取水堰(せき)や分水路、護岸樹林帯もつくるなど、活動してきた。
勲章や名誉市民権をガニ大統領から贈られた中村さんは「私たちの試みが多くの人々に希望を与え、少しでも悲劇を緩和し、より大きな規模で国土の回復が行われることを願う」との談話を発表していた。
死去を受け、アフガニスタンの大統領報道官は「(同国の)偉大な友人、中村医師は、水資源の管理や農法の改善でアフガニスタン人の暮らしを変えるために人生を捧げた。中村医師への凶悪で卑劣な攻撃を強く非難する」とツイートし、功績を評価した。
国連アフガニスタン支援団もツイートで、中村さんを「最も弱いアフガン人を助けるために人生の大半を捧げた」と指摘。「尊敬を集めた日本人援助関係者が殺害されたことに嫌悪を表明する」とした。
パキスタンでNGO代表を務める督永忠子さん(75)は、80年代から交流してきたという。「現地に溶け込む努力が一般的なNGOの水準から飛び抜けていた。モスク(イスラム礼拝所)を建ててイスラム教への理解を示し、スタッフの給与も現地の水準を調べ、決してばらまきはしなかった。だから、ほかの団体が撤退する中でも活動を続けられたのだろう」と話す。
安倍晋三首相は首相官邸で記者団に「医師として医療分野に、また灌漑(かんがい)事業などにおいて大変な貢献をしてこられた。危険で厳しい地域にあって、本当に命がけでさまざまな業績をあげられ、アフガンの人々からも大変な感謝を受けていた。このような形で亡くなったことは本当にショックで、心からご冥福をお祈りしたい」と話した。(渋井玄人、武石英史郎)
周囲に語っていた「あと20年は活動を続ける」
一報を聞いて福岡市のペシャワール会事務局に駆けつけると、4日付で刷られた会報がテーブルに並んでいた。中村哲さんが決意をつづっていた。「この仕事が新たな世界に通ずることを祈り、真っ白に砕け散るクナール河の、はつらつたる清流を胸に、来たる年も力を尽くしたいと思います」
初めて取材したのは2001年の米同時多発テロ後、アフガン情勢が緊迫し、日本へ一時帰国した際だった。以来、繰り返しインタビューをさせてもらった。活動のきっかけに話が及ぶと、いつもはにかみながらこう言った。「最初から貧しい人を助けようと思っていたわけではありません」
少年時代から昆虫が好き。「珍しいチョウが見られるかもしれない」と考え、福岡の山岳会の遠征隊に医師として同行し、1978年にパキスタンのヒンドゥークシ山脈へ。現地では医師が来ていると知った人たちが引きも切らずに訪ねてきた。その場しのぎの薬しか渡せず、「村々で歓迎されると、釈然としないうしろめたさがかえって増した」。その体験が原点となった。
84年に同国のペシャワルに赴き、ハンセン病の治療に当たる。アフガン難民の一般診療にも取り組むようになり、アフガン国内へと活動の重心を移していった。
専門は神経内科だったが、現地では医療全般をこなした。2000年にアフガンが大干ばつに襲われ、清潔な水と食糧があれば治る病気でも亡くなる人が急増すると、「とにかく生きておれ。病気は後で治す」と、飲料水確保のための井戸を掘った。
用水路建設は03年から。土木を独学して図面を描き、自ら重機を運転した。現地の人たちだけでも維持・管理できるようにと、近代的な施設ではなく、伝統的な技法を採用。取水堰(ぜき)は、江戸時代に築かれ、今も使われている山田堰(福岡県朝倉市)をモデルにした。「医学部を卒業したころは、アフガンで河川工事をするとは想像もしませんでした」と、笑っていた。
長く戦乱が続いたアフガンで「復興は軍事ではなく農業から」との信念のもと、近年は国連機関や国際協力機構(JICA)とも連携し、ノウハウをアフガン全土に広めようと考えていた。昨年には現地に訓練センターを開校。アフガン政府も「中村方式」と呼んで、国の基準として採用すると宣言した。73歳だった中村さんは「あと20年は活動を続ける」と周囲に語っていた。無念さはいかばかりか。(佐々木亮)
悪化するアフガンの治安
アフガニスタンでは紛争が続き、治安悪化に歯止めがかかっていない。
東西冷戦下の1970年代から紛争が断続的に続いてきたが、目下の紛争が始まったきっかけは、2001年9月に米国で起きた同時多発テロだ。
米国はテロを実行した国際テロ組織「アルカイダ」をかくまっているとしてタリバーン政権(当時)への軍事攻撃を開始。約2カ月後にタリバーンは敗れ、政権を追われた。
ところが、タリバーンは態勢を立て直し、05年ごろから自爆テロを戦術にとり入れ、再びアフガニスタンでの攻勢を強めた。
劣勢のアフガニスタン政府軍を駐留米軍が後方支援してきたが、米軍の作戦に巻き込まれて死亡する民間人が急増したことで、反米感情が拡大。逆に武装勢力を勢いづかせた。現在ではタリバーンや過激派組織「イスラム国」(IS)の支部組織が国土の半分近くを影響下に置いている。
国連によると、戦闘やテロに巻き込まれた民間人の死傷者は、14年から5年連続で1万人を超す。今年は9月末までに2563人が死亡した。
人道支援を続ける援助団体も攻撃対象になってきた。18年1月には、今回事件が起きたジャララバード市内で、国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」の事務所がISの襲撃を受け、職員ら少なくとも6人が死亡。国連によると、今年は8月までに同国内で援助関係者27人が死亡し、31人が負傷、33人が誘拐された。武装勢力は、政府を支える援助団体も敵視している。
治安混迷を前に各国の援助団体は活動を縮小し、かつて10を超えた日本の団体も大半が撤退した。団体の活動資金となる国際援助も先細っている。
経済協力開発機構(OECD)によると、アフガニスタンへの国際援助額は17年に計約28億ドル(約3千億円)と5年前から半減。欧米各国が他の紛争地や難民問題に資金を振り向ける中、さらなる援助額の削減は避けられない情勢だ。(バンコク=乗京真知)
中村哲医師の略歴と主な発言
・1946年 福岡市で生まれる
・73年 九州大学医学部を卒業。国内の療養所や病院に勤務
・78年 山岳会遠征隊に同行し、初めてパキスタンを訪問
・83年 ペシャワール会設立
・84年 パキスタンの病院に着任
・87年 アフガン難民キャンプ巡回診療を始める
・90年 「地元の人が何を求めているか、そのために何ができるか、生活習慣や文化を含めて理解しないと。善意の押しつけだけでは失敗します」
・91年 アフガンに診療所開設
・2003年 用水路工事を始める
・08年 現地スタッフの伊藤和也さんが殺害される。「アフガンのために働いたのにアフガン人に殺されたと断罪しないでほしい」
・14年 日本の集団的自衛権の行使容認に「(支援)活動はこれまでになく危険になる」と懸念
・16年 朝日新聞のインタビューで、灌漑(かんがい)事業中心の活動について「合言葉は『100の診療所より1本の用水路』」
・19年10月 アフガン大統領が名誉市民権を授与。「私たちの試みが多くの人々に希望を与え、少しでも悲劇を緩和し、より大きな規模で国土の回復が行われることを願う」
アフガニスタン紛争をめぐる動きとペシャワール会
1983年9月 ペシャワール会設立
10月 アルカイダ指導者のビンラディン容疑者をかくまっているとして米などが空爆開始
12月 タリバーン政権崩壊
2008年8月 ペシャワール会メンバーの伊藤和也さんが現地で殺害される
2011年5月 米軍がビンラディン容疑者を殺害
2014年5月 オバマ米大統領(当時)が16年末までの米軍撤退を発表
2015年10月 オバマ氏が米軍の撤退計画を見直し
2017年8月 トランプ米大統領が米軍を増派し、空爆強化
2018年7月 トランプ政権が米軍撤退を目指してタリバーンと和平協議開始
2019年9月 米国とタリバーンが和平をめぐり1日までに基本合意。その後、いったん決裂したが、11月にトランプ氏が和平協議再開を表明