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「 長崎 」の・・・こと、、、を!!!

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https://digital.asahi.com/articles/ASM9M7V6DM9MTOLB016.html

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長崎市の秋の風物詩「長崎くんち」が10月7日、開幕する。7年に一度出番が巡ってくる踊町(おどりちょう)が、個性あふれる演(だ)し物を披露する。400年近い歴史と魅力について、くんちの解説を長年務めた元長崎歴史文化協会理事長の越中哲也さん(97)に語ってもらった。

 ――幼いころからくんちに参加されたそうですね

 母の実家のある新大工町が踊町だった10歳ごろ、太鼓をたたいた記憶があります。当時は稽古がきつくて、実はあまり楽しいと思えなかった。戦争が始まり、奉納は中断しました。

 ――1945年10月、原爆の投下から2カ月後の奉納を見ていますね

 9月、召集先から長崎に戻ると長崎駅と県庁も全焼し、実家の光源寺は建物が傾いていた。そんな中、人の集まる音が聞こえて諏訪神社に行ってみたら、奉納踊をやっていたんです。着物も今のようにきれいなものではなく、シャギリもなかったように記憶しています。

 ――焼け残っていた図書館に通ううちに、歴史研究の道に入られました

 「長崎学」の礎を築いた古賀十二郎さんら先輩たちに図書館で出会い、研究のことはみんな教えてもらいました。私の世代は戦争で大勢死んでしまっているから、引き継ぎたかったのでしょう。その思いを肌で感じたから、研究を続けたんだと思います。

 ――それが、長崎くんちの解説にもつながります

 神事であるくんちを、解説付きで広く一般に公開することは、長崎を観光都市として戦災から復興させる流れと軌を一にしていました。観光客に理解してもらうためには解説が不可欠でした。1950年代ごろは先輩たちが解説を担っていましたが、その後、市立博物館の学芸員だった私も加わりました。

 ――長崎奉行による神事の奨励が、キリスト教の禁教を推し進めることにつながったとも言われていますね

 長崎は元々キリシタンの町です。くんちの起源は17世紀初頭、キリスト教が禁じられた後のことです。当時は弾圧的な性格もありました。しかし、宗教間の対話は進みました。私を見てください。寺の息子で、カトリック校の純心女子短大で教え、神社の祭礼の解説をしてきた。それがこの街じゃないかな。

 ――新しい踊町が加わったり、演し物を変えたり、長い歴史の中には変化もあります

 銅座町が新しく南蛮船を奉納する際など、町の歴史に詳しい立場から協力しました。すべて昔通りにはできない、でも伝統を残したい、新しいものもつくりたい――。くんちには様々な思いが詰まっているんです。「他の町よりいいものを」という思いも、当然あるでしょう。長崎の人は、見えっ張りなんですよ。

 ――越中さんもですか

 くんちのとき、役員たちは紋付き袴を着て山高帽をかぶりますが、かっこよくてね。その装いで街を歩くのが私の誇りなんです。うちにもかつて、ロンドン製の山高帽がありましてね、父が箱に入れて、大切に保管したようです。あれをかぶって、踊町に加勢に行きたいなぁ。

 ――もうすぐシャギリが聞こえてきますね

 わくわくします。(聞き手・米田悠一郎、榎本瑞希)

     ◇

 えっちゅう てつや 1921年、長崎市生まれ。龍谷大学文学部在学中に召集。復員後、30代で長崎市立博物館の学芸員に。82年から今春まで、長崎歴史文化協会理事長を務めた。

400年の


アサデジより転写・長崎版

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変わり目のつぶやき

 済州島(チェジュド)は韓国最大のリゾートアイランドだ。標高2千メートル近くの火山が中央にそびえ、自然豊かで風光明媚(めいび)なこの島は開発が進み、韓国の人々だけでなく、中国の富裕層が別荘地を買い求めているともいわれる。

 対馬は、済州島から260~270キロほど離れている。日本列島と朝鮮半島のあいだの海域にあるこのふたつの大きな島をつなぐ、死者たちの物語を知ったのは昨年6月のことだった。

 済州島では、2001年からアジア版ダボス会議といわれる「済州平和フォーラム」を毎年開催していて、昨年、このフォーラムのなかのひとつの平和自治体のセッションに参加する機会があった。

 フォーラムの大きな目的は「持続可能な平和と繁栄」だが、外交安全保障だけでなく、経済、環境など多くのセッションが設けられ、アジア以外の国々らの参加もあり、夜の晩餐(ばんさん)会には、潘基文(パンギムン)前国連事務総長福田康夫元首相のあいさつがあった。オバマ前米大統領など世界平和に貢献した著名人の蝋(ろう)人形が展示してある、ふしぎな雰囲気の「国際平和センター」の見学も、フォーラムのプログラムに組まれていた。

 済州島では「トルハルバン」と呼ばれる男性の顔の石像をよく見かける。「石のおじいさん」という意味で島の守り神だという。三角の帽子をかぶったような姿で、まぶたをとじて、かすかに含みわらいを浮かべているようにも見える。

 「国際平和センター」の館内を案内してくれた男性は、このトルハルバンに似ていた。彼は自ら石の像のかたわらで微笑(ほほえ)んで、「似ているとよく言われるが、どうでしょう?」とジョークをまじえながら案内をしてくれた。温厚そうなその表情は微笑したとき、特にそっくりになり、通訳をまじえてだったが、トルハルバンの昔語りに耳をかたむけるように感じながら島の歴史の解説を聞いた。

 古くはひとつの王国だった済州島は、15世紀なかば李氏朝鮮に併合されても、独自の文化と風土を守っていたという。20世紀に韓国が大日本帝国に併合されると、その統治下におかれ、終戦後は大韓民国建国まで南朝鮮の一部として今度は米陸軍の統治下となった。

 1948年4月3日、米軍統治下で自治を求めて島民が蜂起したのが、いわゆる「済州島四・三事件」だ。やがて建国した李承晩(イスンマン)政権のもと、軍、警察などが多くの島民を虐殺、遺体は海に投げ捨てられ、海流にのって多くの遺体が対馬に流れ着いた。島の人々は惨たらしい姿を憐れんだのだろう、手厚く葬ったという。「対馬の方々にとても感謝をしています」と、トルハルバンはにこやかな微笑を浮かべたまま、そう語った。

 「四・三事件」をテーマにした金石範の小説「火山島」は十数年ほど前に手にはしたが、あまりの長さに読みそこね、事件はぼんやりとは知っていても、対馬とのつながりはまったく知らなかった。

 今年、日韓関係はこじれにこじれた。政治の対立だけではなく、韓国での日本製品の不買運動もあった。対馬の韓国人観光客は激減、朝鮮通信使を再現した市民行列で知られる「対馬厳原港まつり」への韓国で造られた復元船の来航は中止となり、韓国側の参加者も少なかったという。政治から経済、市民交流にまで対立はしだいに深くなっていったが、「長崎・釜山日韓交流写真展」の開催など民間交流を粘り強く続けていこうとする人々もいた。

 日々、ゆれうごく日韓関係の報道の渦に巻きこまれながら、済州島と対馬をつなぐ死者たちの物語がたびたび頭をよぎった。対馬にある供養塔で「済州4・3犠牲者遺族会」と協力して、対馬の人々が慰霊祭を開くというニュースを聞いたとき、一瞬、青く透明な海流に静かに流されていく死者たちと、海岸に打ち上げられた彼らに手を合わせる対馬の人々の姿を想像して、「トルハルバン」のどこかふくみ笑いも浮かべたような優しい表情もまた思い出した。

     ◇

 青来有一(せいらいゆういち) 1958(昭和33)年、長崎市生まれ。本名は中村明俊。長崎大学教育学部を卒業後、長崎市職員に。市役所で勤めながら作家活動を続け、95(平成7)年に「ジェロニモの十字架」で文学界新人賞、2001年に「聖水」で芥川賞、07年に「爆心」で谷崎潤一郎賞を受賞した。10年から長崎原爆資料館長を務め、今春、定年を迎えた。4月、長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)の客員教授に就任した。

アサデジより転写 長崎版

10月7日・8日・9日

長崎くんち、、、、、

その「 くんち 」を 解説しているのが

【 越中 】さん、、、、


長崎市内の 大人で 知らない人は、、、モグリですね

日本各地に お祭りは 数え切らない



多数がある



長崎くんちは、、、、

『 和洋折衷 』の お祭りです


ぜひ


覗いてみてください

m(._.)m


m(_ _)m




m(__)m


by tomoyoshikatsu | 2019-10-01 16:55 | 呟き と 嘆き