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竹内まりや……PART・2 「 駅 Eki 」あります

ミニスカにタイツ、ある朝の涙

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まさしく…… あの頃の

女子大生です

ポニーテール!バンド締めの、、教科書

スカートを振る

騒ぎましたよねぇ〜

大学生の頃、日本のバンドで一番好きだったのが「シュガー・ベイブ」です。洋楽的な志向のオリジナル曲やコーラスが素晴らしくて、よく聴いていました。

 《後に結婚した山下達郎や、大貫妙子らが在籍したシュガー・ベイブは1973~76年に活動。シティーポップの先駆けとされる》

 私のプロデューサーが前にシュガー・ベイブを担当した縁で、レーベルが同じだった大貫さんや達郎に曲を書いてもらえました。

 私にとって達郎は尊敬すべき作曲家、編曲家であり、頼もしい先輩ミュージシャンでした。「ちょっと聞いてください」と相談すると、「新人賞レースに出されて大変だなぁ」と同情してくれたり、「『SEPTEMBER』はなかなかいい曲だよ」と褒めてくれたりしました。

 《著名な作家たちから楽曲を提供された。79年に日本レコード大賞新人賞を受賞した「SEPTEMBER」は、松本隆作詞で林哲司作曲。80年にヒットした「不思議なピーチパイ」は、安井かずみ作詞で加藤和彦が作曲した》

 その頃の私は、芸能的な活動がどんどん増えていました。

 例えば、新人賞レース。朝8時に会場に集合して音リハとカメリハをやって、本番は12時間後ぐらい。それまでずーっと楽屋で待っている。これは音楽的じゃないと思ったし、そういうことでスケジュールが埋まっていって睡眠が減り、歌入れやツアーのときに声の調子が良くない。悪循環でした。

 「ミニスカートとタイツで、アイススケートをする私」の撮影とか、「お部屋でトーストをかじる私」のグラビアとか。私はなんでこんなことをしているんだろうと思うような仕事が増えて、ある朝出かけようとしたら、パーッと涙が出ました。もうやめよう、と考え始めた頃に、突然声が出なくなって入院したんです。

 病室に、なぜか達郎からお見舞いの花が届いたんですよ。びっくりしたけど、うれしかった。いい先輩だなぁって。心配してくれたんだと思います。

事務所はNGだったけど

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《1980年、アン・ルイスへの楽曲提供の依頼があった》

 退院してまもなくだったけれど、「がんばってみよう!」と。私のオリジナル曲は少なかったのに、それをいいと思う人がいてくれた。友達だったアンが、初めて自分以外の歌手に曲を書くチャンスを与えてくれたのです。

 アンは、私の作品「涙のワンサイデッド・ラヴ」(79年)が好きだとよく言っていて、「あんな感じの曲調で書いてよ」と頼まれました。「じゃ、3連で書くね」と作ったのが「リンダ」です。

 《「リンダ」はアンの結婚を祝う気持ちを込めた詞で、3連符を基調にしたミディアム・スローのロッカバラードに》

 この手の曲なら(山下)達郎先輩に多重コーラスを入れてもらおうとハーモニーを想定して書きました。あらかじめオファーをしていたものの、録音当日、事務所からNGだったと聞いて皆がっくり。

 慌てて家へ電話をしたら、彼はちょうど出かけるところでした。

 「達郎さんのコーラスが入らないと成立しない曲で、事務所はNGだったそうですが、何とか受けてもらえませんか」とお願いしたんです。

 すると、「ちょっと事務所に聞いてみるよ」。そして、すぐに折り返し電話をくれて、「いいって言ったから今から行く」。

 1時間ほど後にスタジオに来た彼は、譜面を見ながらすぐにアレンジをして、一晩かけてコーラスを何回も丁寧に重ねて録音していきました。作業する様子を見守りながら、私は、彼の誠意、音楽に対する誠実さを見た気がしました。

 そのときが、私たちのお付き合いの始まりです。

 アンは「私が頼んだらNOだったのに、まりやが頼むとYESなんだ」と言ってましたけど、彼女にはすごく感謝しています。「あたしのおかげだよ」とアンには今でも言われます。

主婦になって創作充実

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《1980年夏、TV番組「夜のヒットスタジオ」で、山下達郎との交際をオープンにした》

 「二人のバカンス」を歌ったときに、司会の芳村真理さんと井上順さんに達郎とのことを聞かれたので、正直に「お付き合いしています」と答えたんです。別にコソコソ隠す必要もなかったし、お互いの両親にも伝えてあったので。

 以前のどを痛めて入院した際に表立った活動はいったんやめると決心していたので、結婚は音楽制作の原点に戻る最適なタイミングでした。自分の中から言葉やメロディーが生まれ始めていて、時間をかけてそれを形にしていきたいという思いが募っていたんです。

 《81年末で休業し、翌年4月に結婚。同年、河合奈保子のシングル「けんかをやめて」を作った》

 奈保子ちゃんがテレビで歌っているのを見て、歌唱力があるからしっとりした曲も似合いそうだなと思っていました。休業後に曲を作っていたとき、8分の6拍子のロッカバラードを歌ったら似合うんじゃないかと、ふと思ったんですよね。メロディーを弾いていたら「けんかをやめて」という歌詞が何となく出てきたんです。

 それからまもなく、偶然にも彼女のディレクターから「これまでとは違う感じの曲を」という依頼が来て、「実は……」と用意してきた曲を聞いてもらったら、一発で気に入ってくださって。休業後の、外からのオファー第1号だったと記憶しています。奈保子ちゃんとは、歌手と作曲家というそのときの出会いから友人としてのお付き合いに発展して、今でもメールをやりとりしています。

 主婦になって、時間を気にしないで買い物をしたり、借りてきたビデオを一晩中見たりできる。そんな自由な時間と共に、自分の作品を待ってくれる人たちがいることで、私の内なる音楽活動は活性化されました。曲を書くことが楽しくなって、妊娠がわかるまでの2年ほどの間に精力的に曲を作ったので、創作活動としては濃い時間でした。

アイドル曲のオファー続々

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休業した初めの頃は、アン・ルイスに書いた「リンダ」を聞いたディレクターの方々から、女性アイドル歌手に曲を、というオファーが多かったですね。

 《河合奈保子堀ちえみ薬師丸ひろ子らに曲を提供した》

 録音スタジオで、初めて会うスタジオミュージシャンやアレンジャーさんの仕事を見る機会が増えました。宣伝やキャッチコピーを考えるチームの作業もそばで見て、今までは自分の現場しか知らなかったので、人をプロデュースすることの勉強にもなりました。

 特にアイドル歌謡の制作現場に立ち会うことが多く、「こんな風に歌ったらどうですか」と言う、これまでとは逆転した立場になったんです。私自身、芸能活動が苦手で休業していますから、アイドル歌手の人たちには常にシンパシーを感じていました。音楽活動の一端を私が担えるならできる限り協力したいと思ったし、彼女たちとちょっとした時間を一緒に過ごすことも楽しかったですね。

 この時期に出会ったアイドルの中でも、忘れられないのが岡田有希子ちゃん。彼女の楽曲制作の場で学んだことは今でも私の中で大切に生きています。

 《1984年4月、休業後初のアルバム「VARIETY」を出した。全曲の作詞作曲を担当。夫の山下達郎がプロデュースと編曲を手がけた》

 アルバムは当初、「半分ぐらいを誰かに書いてもらって、半分ぐらいは自分で書いたら」と達郎に言われていました。それが、曲を書いてデモテープを作り、聞かせるたびに、達郎が「なかなかいいじゃん」と。最終的にオリジナルだけで1枚作ることになったんです。

 米ロサンゼルスでレコーディングをして日本に帰る頃、風邪をひいて40度近い熱を出しました。飛行機で一睡もできず、成田空港に着くと大雪で交通がストップ。近くのホテルで一晩寝たら熱は下がったものの、その後も2週間近く微熱が続いたので病院に行くと、「おめでたです」。アルバムの宣伝はどうしようか、という話になりました。

TV出なくても聴いてもらえた

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《1984年のアルバム「VARIETY」はオリコンチャート1位に。1曲目「もう一度」は流行語になったTVドラマ「くれない族の反乱」の主題歌だった》

 妊娠がわかって、新作のキャンペーンを縮小。以前は全国へ出かけていましたが、このときはほとんどできませんでした。にもかかわらず前作より売れて、音だけを届けても聴いてくれる人はいるんだ、と初めて感じました。家にいて、自分が守りたいものを守りながらも音楽は続けられる。そんな結論をもらえた気がしたんです。

 今後は他の歌手に曲を提供しながら、自分自身のための曲やオファーが来たドラマの主題歌、CMソングを一つのアルバムになるまで何年もコツコツと積み上げて、その都度できる範囲のキャンペーンをやっていこうと。私の活動の形はこのときに生まれました。

《87年、3年ぶりのアルバム「REQUEST」では、薬師丸ひろ子「元気を出して」、中森明菜「駅」など提供した曲を歌った。発売後3年でミリオンヒットに》

 子育てに忙しい私を見た(夫の山下)達郎からセルフカバーを提案され、タイアップのシングルも数曲加えました。苦肉の策にもかかわらずロングセラーになったのは、世代を問わず毎週買ってくれる人がいたからなんですね。自分の音楽に自信を持って続けてもいいと言われたように感じました。

「元気を出して」は、薬師丸さんからオファーが来て、彼女の癒やされるような声で失恋した女性を励ます歌を、と思って書いた曲です。テーマはわりと第一印象で決まるんですよ。セルフカバーのときは、達郎の提案でひろ子ちゃんを呼んで、3人でコーラスをしたらぴったりとハマりました。

 「駅」の哀愁のメロディーは最初、私の声に合わないと思いましたが、達郎のアレンジで洋楽的なニュアンスが加わりました。切ない歌なのに、録音スタジオのソファに寝かせた2歳の子が目を覚ます前にOKをもらおうと懸命に歌ったことをよく覚えています。

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今思うと、曲づくりのベースは子どもの頃に培われたんですね。実家の旅館には両親と共に面倒をみてくれる温かい大人がたくさんいて、その人たちの人生や思いを見たり聞いたりすることが好きでした。人間の心の動きへの興味は今も尽きません。どうにもならないことや人生の喜怒哀楽を歌や物語にすることが好きなんだと思います。

 作曲は、高校の頃に通ったエレクトーン教室で、リズムパターンやコードの成り立ち、メロディーの関係を学んだことが役に立っています。

 《1989年、テレビの火曜サスペンス劇場のテーマ曲「シングル・アゲイン」が大ヒット。この曲も収録した94年のベスト盤「Impressions」は350万枚以上売れた》

 サスペンスものなので哀感が漂うように。テレサ・テンさんの声が好きで、もし彼女に曲を提供するならばと想定して書きました。

 歌詞は順序立てて物語を構築していきます。まず、キーになる言葉か、曲調や浮かんだメロディーでテーマを決めるんです。このときは「シングル・アゲイン」という言葉を使いたくて、かつての恋人がパートナーと別れたと聞いたところから「やっと本当のさよならできる」という結論に持っていくために、風景を入れてみたり、物語を転換する言葉を考えたり。右脳的な作業でありながら、逆に左脳的でパズルみたいなところがあるんです。

 《92年のアルバムは「Quiet Life」。同名の曲も収録した》

 孤独な都会で一筋の光を探して生きる。そういうテーマを初めて歌いました。やっと自分に合った音楽活動ができて、私生活が静かに守られていることがすごくうれしかったんですよ。遊園地に親子3人で自由に行くこともできたし、何者にも干渉されない穏やかな生活。それを「Quiet Life」と呼びました。

セルフカバー、亡き彼女へ

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駅・Eki https://youtu.be/gjyXtpdX_Bw

2001年のアルバム「Bon App●(●はeに鋭アクセント付き)tit!」は9年ぶりで、それまでのシングル曲がたくさんたまっていたので、たっぷり召し上がれ、という意味で名付けました。

 朝6時半ごろに起きて、テレビで時間を確認しながら娘のお弁当を詰めるのが当時の日課でした。そんな何げない1日1日が大切なんだなと感じながらお弁当を作る中で生まれた曲が、「毎日がスペシャル」です。日々の想(おも)いを歌うようになったのはこの頃からですね。

 子どもが成人して自分のことに費やせる時間が増えました。07年にアルバム「Denim」、デビュー30周年の08年にベスト盤「Expressions」を出して以降、私の生活スタイルはほとんど変わっていません。

 03年のアルバム「Longtime Favorites」は、自分のルーツである1960年代のポップスをカバーした作品でした。そのとき録音できなかったビートルズやジャズなどのカバーを少しずつ録音して、(夫の山下)達郎のラジオ番組「サンデー・ソングブック」にゲスト出演したときに紹介しています。今の自分が作る楽曲に全部つながっているし、ひたすら楽しく歌っています。

 《こうした洋楽のカバー曲を含む40周年記念アルバム「Turntable」を今月4日に発売。未発表の作品、セルフカバーなど全62曲を収録している》

 これまで他の歌手に書いた作品は100曲ほど。最も多くの楽曲を提供したのが岡田有希子ちゃんです。6作目のシングル「哀(かな)しい予感」を書いたのを最後に彼女は亡くなりました。私の楽曲を大切に歌ってきてくれた少女が自ら命を絶ったことは本当にショックでした。

 三十三回忌を経てようやく「憧れ」「ファースト・デイト」など3曲を、今回初めてセルフカバーすることができました。ティーンエイジのときめきを描いた作品を、60代の私が歌うのを喜んでいてくれるでしょうか。とても思い入れの深かった有希子ちゃんの曲を今歌うことができて、本当によかったなぁと思っています。

武道館ライブ、45歳の決心

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ライブを心から楽しめたという記憶が、私にはありませんでした。アマチュア時代と違い、プロとしての自分を客観視すればするほど、めざす基準に到達できていないジレンマに陥るからです。

 《2000年7月、FM局の開局30周年記念ライブで、日本武道館のステージに立った》

 最初は、18年もやっていないから無理、と断ろうと思いました。でも前座もいて、14曲ほどやればOKと聞いて、それなら体力をつけてライブの感覚を取り戻す練習をすればいけるかも、と。バンマスが(夫の山下)達郎で彼の素晴らしいバンドが演奏してくれることにも背中を押されました。

 親の指図を聞かなくなってきた10代半ばの子どもに、母の頑張る姿を見せてやろうかな、と思ったことも理由の一つ。それが功を奏して、武道館で歌ってからあまり文句を言わなくなりました。

 45歳で決心していなかったら、二度と表舞台で歌わなかったかもしれませんね。常に達郎の活動を優先させたいので、自分のライブは、彼に時間と肉体的な余裕があるときだけに限っています。

 《10年にFM局の40周年ライブに。14年、アルバム「TRAD」を出し、6都市をツアーで回った》

 55歳で再びライブをやったとき、還暦までにツアーをやるかも、とお客様に言ったので、59歳で約束を守りました。

 達郎は、ライブが音楽を一番ストレートに届けられる場所だと知っていて、それを体現しています。彼のステージを40年見ている私にとって、あれがまさに真のプロフェッショナルと呼べるレベル。それを知る以上、おいそれとはステージに立てないんですよ。

 「日本のポップス界の宝」だと思っている山下達郎が音楽を生むための環境をそばで作ることは大きな喜びですし、ひいては、それが私自身の間接的な音楽活動でもあると思っているんです。

 《映画「souvenir the movie」を昨年公開した》

 これまでのライブ映像からハイライトシーンを選び、今の私の思いも語りました。多くの方に見ていただき、制作した甲斐(かい)がありました。

満足するより、歌い続けたい

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50代に入り、「この美しい桜をあと何回見られるのだろう」と思う自分がいることに気づいて、年を重ねていくことに対する想(おも)いをテーマに書いたのが「人生の扉」です。反響がとても大きかったので、年齢が上がることで見つかる言葉や、共感してもらえる作品が生まれる可能性があるかもしれない、という希望をいただきました。

 《「人生の扉」は2007年のアルバム「Denim」に収録。08年に連続テレビ小説「だんだん」の主題歌「縁(えにし)の糸」を歌い、挿入歌「いのちの歌」の詞も手がけた》

 いつも事務所のデスクを守ってくれていた40代の女性スタッフが、ある日突然末期がんで余命数カ月と診断されました。「いのちの歌」は、そのことを私が聞いて、沈んでいた頃に書いたものです。当たり前だと思っている日常がどれほど貴く、生かされていることがいかにありがたいかを実感する出来事に遭遇することで、人生を歌うことがおのずと増えました。

 55歳を過ぎた頃から時が過ぎていく早さを痛感するようになり、本当にやりたいこと、やっておくべきことを優先したい気持ちが強くなりました。

 《10月に映画の主題歌として新曲「旅のつづき」を出す》

 人生の残り時間を最後の1秒まで楽しもう、という歌なんですけど、タイムリミットがあるからこそ、ささやかな日々を大切にしたいな、と思います。

 健康管理には気をつけていますが、ジムに通うとか義務づけが何かあると続かないタイプで、その代わりによく歩いています。ストイックなのは苦手。自分で決めたことをちょっとだけ守るぐらいが私にはちょうどいいですね。

 「Turntable」を出して「40年やりました!」と満足するよりは、その先を見て歩き始めたい。次は70代に向かって、歌い続けているという現在進行形の自分を大事にしていこうと思っています。


アサデジより転写……9月10日・07:00


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by tomoyoshikatsu | 2019-09-17 00:10 | 呟き と 嘆き | Comments(0)