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(ナガサキノート)歌い始めるまで、抱えていた罪悪感

(ナガサキノート)歌い始めるまで、抱えていた罪悪感


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田崎禎子さん(1940年生まれ)

 2008年春。新聞を読んでいた田崎禎子(たさきていこ)さん(78)=長崎市西山2丁目=の目に、一つの記事が留まった。被爆者でつくる合唱団「被爆者歌う会 ひまわり」が会員を募集するものだった。この年から、平和祈念式典前に同じ会場で歌声を披露すると伝えていた。

 歌うことが好き。でもそれ以上に、ある思いが田崎さんに浮かんだ。「平和公園で歌うということは、供養になるかもしれない」

 1945年8月9日、4歳だった田崎さんは爆心地から4・5キロで被爆した。けがはなく、被害の様子は分からなかった。伯母といとこが長崎市城山町で亡くなったが、直接の記憶はない。でも、戦後の生活で、被爆死した2人や戦死した父、伯父について語ることができず、ずっと罪悪感を抱えていた。ひまわりと出会ったのは、そんなころだった。

 ひまわりに入って10年以上がたった今も、仲間と舞台に立ち続けている。家族を思いながら、平和が続き、原爆が二度と使われることのないよう訴えながら。

 田崎さんは1940年9月、長崎市下筑後町(現・筑後町)で父の仁(ひとし)さん、母のイ子(いね)さんの次女として生まれた。仁さんは鹿児島出身で家具などを作る大工。イ子さんの父が大工で、仁さんはその弟子だったという。

 田崎さん自身は覚えていないが、イ子さんいわく、仁さんは「きれい好きで優しかった」。赤ちゃんだった田崎さんをイ子さんが抱っこして外に出かけると、その間に仁さんが家をきれいに片付け、掃除をしていたことがあった。イ子さんが戦後、「御殿みたいになっていた」と語り聞かせてくれた。

2歳上の姉清子(せいこ)さんと4人で暮らしていたが、仁さんは1942年、フィリピンへ出征した。妹の仁子(じんこ)さんが生まれたのは1943年6月。仁さんが家族のもとを離れたのは、イ子さんが三女を妊娠していたのを知っていたのか分からないくらいのころだったという。

 仁さんは1945年6月21日にマニラで亡くなったと知らされた。「今考えると、どれほど父は私たちを心配していたのだろうと思います」

 田崎さんは1945年6月ごろまで、下筑後町の家で暮らしていた。近くには母方の祖父母の家があり、遊びに行っていた記憶がある。その後、建物疎開で長崎市中小島町(現・中小島1丁目)へ母、姉、妹と移った。祖父母も長崎市の愛宕に当時あった「吉田牧場」の中に疎開。広大な敷地の中で、ホルスタインが草をはんでいたという。牧場主の家の横に配給所があり、そのすぐそばに祖父母が疎開した家があった。

 8月9日。いつものように家族で祖父母のもとを訪ね、田崎さんと姉の清子さんは牧場内にある池の近くの桜の木のもとで遊んでいた。二つに折った葉に、木に付いていた松ヤニをのせ、そのすき間にアリを通していた。

 突然、配給所で働いていた1人の女性が叫んだ。「うわー、落下傘が落ちてきている!」。女性の方を見ると、田崎さんと清子さんを必死に手招きしている。2人は牧場主の家へ向かって走り、玄関に入った。

 その時、背後から強い光が差し込んだ。光った後に建物全体が大きく揺れ、窓ガラスが割れる音がした。牧場主の女性が「早く伏せて!」と叫び、田崎さんと姉清子さんが伏せるとすぐに布団をかぶせてくれた。2人ともけがはなかった。

 しばらく経って2人は祖父母が疎開している家に行った。祖父母と母、妹がいて、みんな無事だった。被爆した瞬間、疎開先の家のそばにブリキで小屋を建てていた祖父増五郎(ますごろう)さんは泥だらけだった。積んでいた泥を爆風のせいでかぶったのか、身を守ろうと自分でとっさにかぶったのか、今も分からない。

 暗くなってから、家族で牧場の近くにある防空壕(ごう)へ入って過ごした。戦後、母イ子さんは、移動する途中に見えた長崎駅など市街地が「火の海だった」と語っていた。田崎さん自身は行っていないが、それ以降、イ子さんや増五郎さんは爆心地の方に親戚を訪ねていったようだった。

 1945年夏、田崎さんの母イ子さんの長兄一家3人の命が奪われた。田崎さんにとっては伯父銭田増雄さん、伯母信子さん、いとこの久美子ちゃん。幼い田崎さんがそれを実感したのは戦後になってからのことだ。

 増雄さんは旧制鎮西学院中出身で、五島生まれの信子さんと結婚し、大阪の証券会社で働いた。その後、沖縄へ出征。信子さんと生まれたばかりの娘、久美子ちゃんは長崎市城山町に移り、2人で暮らしていた。沖縄守備隊の予備役主計中尉だった増雄さんは6月20日、ガマで自決。当時34歳。信子さんと久美子ちゃんは8月9日、原爆で亡くなった。

 子どものころ、田崎さんは亡くなった増雄さんを「へいたおじさん」と覚えた。「兵隊に行ったおじさん」だからだ。イ子さんにとって増雄さんは自慢の兄で、よく話を聞かされた。祖母に内緒でそろばんを習いに行くような頭が良い人だったという。祖母タカさんは信子さんのことを、「賢くきれいな人だった」「すごくいい嫁だった」と褒めていた。

 終戦後少し経ったころ。長崎に来る進駐軍の米兵を恐れ、田崎さん一家は祖父の本家がある三会村(現・島原市三会町)に向かった。徒歩で移動し、1泊目は野宿をし、2泊目は旅館に泊まった。妹は乳母車に乗り、田崎さんも手を引かれて歩いた。

 到着した後のことが記憶に刻まれている。松林が近くにある親戚の家の庭にムシロを敷き、その上でカボチャご飯を食べた。長崎では戦時中、食べ物が豊かでなかったので、田崎さんにとって、おいしいと喜びを感じながら食べたのは初めてのことだった。松林の木々の間から見える夕日が美しかった。

 田崎さん一家はその後、長崎市中小島の自宅へ戻り、母と3姉妹で暮らし始めた。時々、進駐軍の米兵が家の中に駆け込んで来ることがあり、びっくりして怖かった。「だって体が大きいでしょう」。当時は理由が分からなかったが、丸山の遊郭に出入りする姿を憲兵に見つかり、追いかけられて慌てていたようだと後から聞いた。

 戦後、田崎さんは長崎市立仁田小学校に入学した。低学年のころ、戦死した人の子どもにお菓子が配られた記憶が残っている。

 朝礼の時だったように思う。小さなチョコクッキー、ガムが、小さなバスケットに入っていた。周りで配られている人はあまり多くなく、田崎さんはお菓子をもらえたことが単純にうれしかった。

 記憶の中に思い描けない父。「亡くなった悲しみは分からないですもんね。ただ『いない』という事実だけでした」。戦後、父の故郷の鹿児島で戦死者の慰霊式に出たが、印象に残るのは会場のきれいな紙の飾りだった。

 一方で、父親がいることへの憧れもあった。夕方、三菱や川南造船所の男性が帰路につく姿を縁側で眺めた。母は悲しむ様子を見せなかったが、父のことはよく聞かされた。田崎さんが片付けをきれいにした時。冬にあかぎれになった時。「それもそっくり」「似なくていいところも似るのね」。そう笑いながら話していた。

 田崎さんが小学3年の時、母イ子さんが再婚した。女手一つで3人の娘を養っていくのは大変だったのだろう。家族で伊王島に移り、養父とともに生活し始めた。弟も生まれた。

 それから、家の中で戦争の話は「禁句」になった。フィリピンで戦死した父仁さんや伯父一家のこともだ。戦争中と、戦後の新しい生活はまったく「別の世界」になり、踏み越えてはいけないような雰囲気だった。養父への配慮もあった。田崎さんにとっては、仁さんの存在がなかったかのようになってしまうのが申し訳なかった。仁さんが作った机と茶棚は養父には知らせずに使い続けた。

 家の生活は裕福でなかったため、田崎さんは中学卒業後、和裁の学校に入ったり、住み込みで働いたりして、1年遅れて高校に入った。卒業後は妹が集団就職のために移っていた名古屋で働き始めた。現地の被爆者団体から郵便が届いたこともあったが、一人では心細くて、会には参加しなかった。

 田崎さんは毎晩、布団に入ると小さくつぶやく。「じいちゃま、ばあちゃま、へいたおじちゃん、信子おばちゃん、久美ちゃん、父さま、ご先祖のみなさま……。今日も一日、ありがとうございました」。戦争で亡くなったり、戦後一緒に過ごしたりした家族一人ひとりを思い浮かべ、感謝を込める。田崎さんが「お参り」と呼ぶ、毎日の習慣だ。

 田崎さんは母イ子さんの再婚後、亡くなった父仁さんのことを話せないまま、長い時間が経った。伯父や伯母、いとこのこともずっと頭にあったが、名古屋に移ってからは、なかなか長崎に墓参りに行くことができず、「このままでは浮かばれない」と引け目を感じるようになった。毎晩の「お参り」を始めるようになったのはそのころからだ。

 1978年、田崎さんは結婚と同時に長崎に戻った。養父を10年後にみとってからは、家族で父や戦争について少しずつ語りはじめた。そして2008年、「被爆者歌う会 ひまわり」に巡り合った。

 入会後、その年の8月9日に初めて平和祈念式典前のステージに立った。歌っている間、原爆で亡くなった伯母といとこに、心の中で「ここにいるよ」と呼びかけた。

 田崎さんは戦後、県外で長く過ごし、母が被爆時に見た爆心地の状況を、聞くことはできなかった。「私自身原爆に遭ったけれど、ほとんど何も知らなかった」。ひまわりには被爆時に20歳を超えていたメンバーもいて、初めて直接詳しい状況を聞くことができた。

 皮膚が焼けただれた少年の姿、「助けてあげたい」と思いながら逃げた罪悪感、あの日奪われた家族のこと――。メンバーの話を聞き、それぞれが思いを抱えながら、ひまわりの活動に力を注いでいると感じたという。

 家族を奪い、原爆を落とすことになった戦争を繰り返さないでほしいと、それまでも考えていた田崎さん。メンバーの被爆体験を聞き、「悲惨な思いをする人が、二度と出ないようにしたい思いが強くなりました」。

 物心つく前に戦争で家族を亡くし、長い間、心に抱えてきた思いを表現できなかった田崎さんにとって「被爆者歌う会 ひまわり」の活動は今、生きがいになっている。

 10年間、色々なことを経験した。2013年にひまわりの公演ではじめて沖縄を訪れ、平和の礎(いしじ)に刻まれた伯父の名前に触れた。2015年にはドイツや米ニューヨークへ渡り、世界に向けて発信した。「戦争のない、平和な世界にしたいという気持ちは一緒。思いはつながっている」と実感する。

 ひまわりを主宰する寺井一通(てらいかずみち)さんは、田崎さんを「本当にまじめな方。平和を愛しひたむきに歌っていて、信頼している」と話す。今年1月、田崎さんは年長の世代から引き継ぎ、ひまわりの6代目会長になった。

 一緒に活動した仲間の中には亡くなった人もいる。先のことを考えると「心細さがある」というが、田崎さんはこう考える。「歌だからこそ届く人もいると思う。一人でも多く少しでも長く、一緒に進んでいきたい」(田部愛・26歳)

アサデジ 長崎版より


NHK ・広島へ https://www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20190520/0004413.html

19日・14:00~

盛岡では

定例となっている

高校生平和大使が 署名活動をしていたと思います

今回は、、、、、、と 思っていても 身体が 云う事を聞きません

来月は 梅雨に入ってますから……

出足が気になります


by tomoyoshikatsu | 2019-05-29 00:00 | 被爆者関係の…