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潜伏キリシタン

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 「かくれキリシタン」と呼ばれる人々がいる。江戸時代の禁教期も信仰を守り、解禁後もそれまでの儀式や慣習を変えなかった。だが、いま私たちが知るキリスト教とは、信仰の中身がかなり異なるようだ。

 1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本でキリスト教の布教が始まる。九州を中心にキリシタン大名が現れ、信者も増えたが、勢力の拡大を恐れた豊臣秀吉徳川幕府は宣教師の追放令や禁教令を出す。弾圧に反発した農民らが1637年に島原・天草一揆を起こすもののほぼ皆殺しにされ、信者は長い潜伏時代を生きることになる。

 明治維新を迎え、1873年に禁教の高札が廃される。カトリックに合流する信者がいる一方で、それまでの信仰形態を手放さない集団がいた。西九州の「かくれ(隠れ、カクレ)キリシタン」と呼ばれる人々だ。今、最も多い生月島(いきつきじま)(長崎県平戸市)で300人ほともいわれる

信徒らは潜伏期から地域ごとにまとまってオラショと呼ばれる祈りを捧げ、独自の取り決めや年中行事を保持してきた。その結果できあがったイメージは、「近世の過酷な迫害をひたすら耐えしのび、神仏崇拝を装いながら信仰の灯をひそかに守り抜いた、敬虔(けいけん)なキリシタン」というものだった。

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 だが、その名称やイメージは実態を映していない、と宮崎賢太郎・長崎純心大客員教授(宗教学)。「なぜなら、(禁教が解かれた後は)彼らは隠れてはいないし、(私たちが考えるような)キリスト教徒でもないのだから」

 確かに、現在の儀式や年中行事に、キリスト教本来の面影は薄い。宣教師のいない年月を刻む中でオラショの神へ捧げる意味や内容は忘れ去られて呪文化し、信仰の形も変化した。

 宮崎さんによれば、その信仰は先祖崇拝や現世利益を求める呪術的な民俗信仰であり、そこにキリスト教の要素はほとんど見当たらない。独自の信仰形態が維持されてきた理由は、先祖代々のしきたりを絶やしてはならないという使命感、さらにはたたりを恐れた面が大きい、というのだ。

 「信仰は土着化し、先祖代々のオラショをただ唱え伝えていくという行為そのものに意味があった。彼らは仏教徒や神社の氏子でもあり、そこにどんな存在かわからなくなったキリスト教由来の神が加わって、ごく自然に併存してきたのです」

 オラショには早く船が港に着くようにとか、怖い道を通るときに唱えるものなど、現世利益を求めた創作さえあるという。

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 では、全く伝来当初の痕跡をとどめていないかといえば、そうでもないらしい。たとえば、オラショの内容は当時刊行された教理の入門書などと共通する部分も多い。

 中世・ルネサンス音楽史の専門家、皆川達夫・立教大名誉教授はかつて、生月島で節をつけて歌われるオラショのルーツを調査した。そして、その一つの原形がイベリア半島の片田舎で歌われていた聖歌だと突き止めた。音楽の持つ生命力に驚き、「絶句しました」と皆川さん。

 平戸市生月町博物館・島の館の中園成生(しげお)学芸員は「宣教師がいなくなったことで、(オラショの文句のように)逆に当初の信仰の形が変化せず、そのまま今日まで伝えられた部分があるのです」と語る。

 忘却と変質を重ねながらも生き延びてきた「かくれキリシタン」社会だが、近年の過疎化や後継者不足で、地区ごとに信仰を支えてきた組織は消滅し、信徒は急激に減っている。

 この夏、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコ世界文化遺産登録をめざす。その行方に注目が集まる一方で、潜伏時代の信仰の面影を今にとどめる「かくれキリシタン」は消え去ろうとしている。(編集委員・中村俊介)

 ■天主堂など、世界遺産めざす

 世界遺産をめざすのは、島原・天草一揆の舞台となった長崎県の原城跡、信徒がひそかに信仰を守った平戸や五島列島熊本県天草の集落など、潜伏時代のキリシタンをテーマにした12の資産だ。

 国宝の大浦天主堂や、禁教が解かれた後、潜伏期以来の信徒らが造った江上(えがみ)天主堂などの教会建築も含まれている。今も信仰を集める平戸市の中江ノ島(なかえのしま)や安満岳(やすまんだけ)といった聖域や、美しい棚田の風景もある。

 <読む> 宮崎賢太郎の『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)と『カクレキリシタンの実像』(吉川弘文館)は従来のイメージを問い直す。中園成生『かくれキリシタンの起源』(弦書房)は民俗学的な視点でそのルーツと実像に迫る。

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近世のキリスト教弾圧の中で信仰を継続した潜伏キリシタン。その歴史を示す長崎・熊本両県の12資産が、ユネスコ世界文化遺産に登録される見通しとなった。

 長崎・熊本両県の12の資産が語りかけるのは、近世のキリスト教弾圧のなかでも信仰を継続し、解禁後の「復活」に至る潜伏キリシタンの歴史だ。

16世紀、宣教師の来日とともに急速に広がったキリシタン勢力は権力者の警戒を呼び、17世紀初頭、江戸幕府は禁教を断行する。原城跡は大規模弾圧となった島原・天草一揆の舞台だ。発掘調査で鉄砲の弾でつくった十字架なども見つかっており、遺構は壮絶な戦いと悲劇を物語る。

 西九州の信徒らは弾圧を逃れて信仰を隠し、一部は五島列島などの新天地に移住して行った。信徒がひそかに信仰を守りながら暮らした記憶は、候補になっている黒島や頭ケ島(かしらがしま)、野崎島、久賀島(ひさかじま)、奈留(なる)島(しま)といった離島、平戸や外海(そとめ)地区、天草・崎津などの集落(跡)に点在する。彼らは信仰が露見して処刑された殉教者ゆかりの中江ノ島や聖なる安満岳(やすまんだけ)をあがめた。

 幕末期、居留地の西洋人のために国内最古の教会建築、大浦天主堂が建てられる。ここで、来日した神父に潜伏キリシタンが信仰を告白する「信徒発見」(1865年)という劇的な出来事が刻まれた。

 幕府が倒れ明治を迎えても、しばらく禁教は維持されるが、列強の非難を受けて政府は1873年、ついに禁教の高札を撤廃。各集落で細々と信仰を守ってきた信徒は、自らの信仰のよりどころとなる教会を次々に築いていく。

 カトリックに復帰した者も多かったが、一部は潜伏時以来の独特の伝統儀礼を保持し、今に至る。「かくれキリシタン」と呼ばれる人々だが、その組織も過疎化や後継者不足で消滅の危機を迎えている。(編集委員・中村俊介

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 長崎世界遺産学術委員会委員長で、くまもと文学・歴史館館長の服部英雄・九州大名誉教授(日本中世史)の話 これまでの(世界遺産の)ようにパッと見てわかりやすいたぐいのものではないが、潜伏という隠れた視点を理解してもらえたと思う。集落景観の背景にある歴史をくみ取っていただけたようだ。(資産を)訪れる人には、そんな歴史的な視点を読み取ってもらえればうれしい。

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 長崎の教会群を世界遺産にする会会長の林一馬・長崎総合科学大名誉教授(建築学)の話 待ちに待った勧告。やっと実現しそうなところまで来た。人口が減る地域で頑張っている人々の元気づけにも、「世界遺産」は大きなブランドだ。単なる観光だけでなく、街づくりでも次のステップにつなげていけるだろう。

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 〈世界遺産〉 1972年の世界遺産条約に基づき、各国政府の推薦の中から、国際記念物遺跡会議(イコモス)などの審査と勧告を経て、21カ国でつくる世界遺産委員会が年1回、「顕著な普遍的価値」や「真正性」、保全措置などを検証したうえでリストに載せるかどうかを決める。世界遺産の総数は、文化遺産832件、自然遺産206件、両方の価値を備えた複合遺産35件の計1073件(昨年7月現在)。

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 〈長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産〉 2007年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として暫定リストに記載されたが、政府は13年、「明治日本の産業革命遺産」の推薦を決定。教会群は15年にユネスコへ正式推薦書が提出されたが、翌年、「禁教の歴史の特殊性に焦点を当てるべきだ」とするイコモス(国際記念物遺跡会議)の指摘を受けて推薦を取り下げた。潜伏時代をクローズアップする形で推薦書を練り直し、名称を変更した上で17年、正式推薦書がユネスコに再提出された。

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 〈潜伏キリシタンとかくれキリシタン〉 欧州の宣教師の来日で急激に増えたキリシタンも、時の権力者による弾圧や迫害で長い潜伏を余儀なくされる。一般に、江戸時代の禁教下でひそかに信仰を守り抜いた人々を「潜伏キリシタン」、明治になって禁教が解かれたあとも、潜伏期以来の儀礼や行事を守り続けてきた人々を「かくれキリシタン」と、便宜的に呼び分けている。「かくれ」「隠れ」「カクレ」など表記は研究者によって異なる。

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世界遺産登録に至る道のり

2007年 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が暫定一覧表に記載

13年 文化審議会が「長崎の教会群」を、内閣官房の有識者会議が「明治日本の産業革命遺産」を推薦候補としてそれぞれ選定。政府が「明治日本の産業革命遺産」の推薦を決定

14年 文化審議会が「長崎の教会群」を推薦候補に選定

15年 「長崎の教会群」の推薦書をユネスコに提出

16年 イコモス(国際記念物遺跡会議)が「禁教の歴史の特殊性に焦点を当てるべきだ」と提案。推薦書を取り下げ、禁教期と関係の少ない2資産を除外、文化審議会で再び推薦候補に。タイトルを「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に変更

17年 推薦書をユネスコに提出。イコモスが現地調査

18年6~7月 バーレーンである世界遺産委員会で審議

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日本の世界遺産

記載物件名              登録年

法隆寺地域の仏教建造物      1993年

姫路城                同  

屋久島*               同  

白神山地*              同  

古都京都の文化財         1994年

白川郷・五箇山の合掌造り集落   1995年

原爆ドーム            1996年

厳島神社               同  

古都奈良の文化財         1998年

日光の社寺            1999年

琉球王国のグスク及び関連遺産群  2000年

紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道      2004年

知床*              2005年

石見銀山遺跡とその文化的景観   2007年

平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群

                 2011年

小笠原諸島*             同  

富士山―信仰の対象と芸術の源泉  2013年

富岡製糸場と絹産業遺産群     2014年

明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業

                 2015年

ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献

                 2016年

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 2017年

*は自然遺産


今回はココまで!

朝日デジタルより転写


by tomoyoshikatsu | 2018-05-10 08:50 | 故郷の……