石牟礼道子さんの語録

 「後にくる者たちに残すよすがの物を、わたしたちは持たなくなってしまいました。なんという世の中の変わりようでしょう。言葉というものさえ、はたして伝わるものかどうか、おぼつかないかぎりに思えます」(1990年)

 「不知火海域でおかされたチッソと国と地方行政の『過失』は、私人が私人に対して働いた不法行為だったのだろうか。それは生命界に対する、天人ともに許さざる公法的犯罪だったのではないか」「不知火海のほとりに生きてきた漁民は、自然の恵みの中にあって、おのずと人の生きる道をわきまえながら、日々を律してきた人びとであった。そういう人びとが祖霊たちの宿る海辺に加えられた暴虐を問いただそうとするとき、訴えることのできた手段が、近代市民社会における私法上の損害賠償しかなかったことを考えると、暗然たる思いに包まれる」「世界を覆いつくした異様な人喰(く)い文明の最初の供犠の地となった水俣。ここから今なお発せられるメッセージとは、産業至上の文明に喰いつくされる国土とすこやかであった魂の形見の声ではなかろうか」(1993年)

 「この人たち(水俣病患者)は命とひきかえに、構造化した近代日本の病巣の中心部を探りあて、わが身の骨の火をかざし、そこへ分け入ろうとしているのではないか。秘蹟(ひせき)の地に立ちあい、わたしもためされています」(95年)

 「チッソの幹部たちが言ってることは保身のためとか、その場逃れのいいわけだったり、患者さんは一目で見抜いて、気の毒にも思っている。『あなたは何の宗教ば信じとりますか』などとしみじみ尋ねるんですね。修羅場なんですけれど、しだいに人間が試される聖域に変わっていくのです」(2000年)

ログイン前の続き 「(水俣病との出あいについて)立派な覚悟があったわけではないのです。引き寄せられて気がついたらそこにいたというべきか。関心が人間の苦悩というものにいきがちな性分だったのと、自他共に生きている意味がわかりたいと切実に思っていたところへ水俣病がわーっと出てきた」(同年)

 「(人類は)美や倫理の基準を見失ってしまい、人はもう物質的なものの中にしか夢を描けなくなった。形は精神から生まれます。何が本当に美しいのかを点検し直して、精神を豊かにする夢を作り出さないとどうなるのでしょうか」(同年)

 「(水俣の漁民は)文字も知ってるけどいきいきした言霊の世界にいます。海は生命の原初で、自分もそこの一員だと、光がみちてくる顔で思っておられ、ですから、漁をすることは上古の神遊びのようにさえ見えます」(同年)

 「日本人は姿形まで変わってきました。人さまのご迷惑にならないよう能の橋がかりを行くようなすり足から、いまはもう人を押しのけ、われがちに行こうとする歩き方に」(同年)

 「原体験として祖母とのことがありました。祖母は狂女でした。私は彼女のお守りをしながら、二人で日がな一日言葉遊びをする。ふつうの人が聞いていたらおかしいでしょうが、この世を超えた美的な世界を何とか言葉でつむいで、幻想の中に祖母と一緒に入っていく。幸福な時間でした」(同年)

 「(有明海の問題で)小さい子たちが海で遊ばせてもらう喜び。永遠なる天と海に向かって命を解き放つ心の輝き。漁師はそんな牧歌と神話の世界に生きる稀有(けう)な人たちだったのに、情けない境域に追い落としてしまった。有明海の漁民は、政治家たちの駆け引きの道具にされてはいないか」(01年)

 「別の患者さんは、『自分の罪に対して祈る』と嗚咽(おえつ)しながら言われます。発病したのは患者の責任ではありません。なのに、なぜこの方は『自分の罪』と言ったのでしょうか。私は、この患者さんが苦しみ続け、あえぎ続け、それでも痛みは消え去らないと知ったとき、人間の原罪をわが身に引き受ける気持ちになられたのだと思います」(02年)

 「患者さんにとりついた水俣病は離れてくれず、痛みも癒えることはない。それなら、いっそのこと水俣病を『守護神』にしよう。人間の、この罪と痛みをわが身に全部引き受けて、一心に祈ろうと思っておられます。似たような心境を語ってくださる患者さんはほかにもいます」(02年)

 「患者さんに背中を押されて、導かれていく感じでした。古代の神話世界の人に会いに行くような気持ちで。心の糧を得たのは私の方です」(同年)

 「心の故郷はどこも汚染されてしまいました。水俣は日本列島内視鏡で、そこから何でも見えます。不知火海の向こうは天草、その先に大陸と広がり、海にお日さまが沈む。そのとき太陽の箭(や)が海底に直入し、生命の根源に光の柱が立つ。生命の永遠、誕生と死の劇が夕昏(ゆうぐ)れの海にあらわれる。あらためてそれを考えさせる水俣病の事件があり、ただならぬ死が今も続く」(同年)

 「人間は滅ぶと思います。大自然、風土が汚染され、人間が毒素、毒草になっています。最近次々に起きる事件を見ても、人が狂暴になっています」(同年)

 「古典文学の世界には常に精霊がいた。今も患者さんの中におり、実体のあるものとして拝まれる。進歩的文化人は村を出て、故郷を振り返らない。室生犀星の小景異情『ふるさとは遠きにありて思ふもの』のように。色々な風土が民族を豊かにするのに、日本は画一化することで近代化を進めてきた。その近代化を支えた母層が枯れ果ててきました」(同年)

 「初めて水俣を訪れた国会議員に陳情するのに、患者の中岡さつきさんが『国会議員のお父さま、お母さま』と呼びかけたんですね。自分たちの父母のような人たちなんだから、きっと助けてくれるに違いないと。そうした純朴さが、ずーっと裏切られ続ける」「いま、日本人が失ってしまった倫理観や信義のことを命にかえて考えつめておられるのは、患者さんたちですよ。劇症の病苦を背負ったわが身を通して、命のこと、魂のこと、あるべき人の世のことを考えておられる。そのお姿はとても崇高で、まわりを純化しておられます」(05年)

 「近代化された標準語では他人、他者ですが、私が生まれた天草では『人さま』と言います。人さまを大切にする、隣人を大事にする、ゆきずりの人であっても縁を感じて大事にする。それが地方でも村でもなくなってきていますね」(08年)

 「(水俣病患者で語り部の杉本)栄子さんは『今夜も、祈らんば生きられんとばい』『許さんことには生きられんとばい』と言っていました。『(自分たちを差別した人たちを)呪う、憎むのはもうきつか。苦しくて生きられん』と。(中略)もう菩薩(ぼさつ)さまですね」(同年)

 「私の周りのお年寄りたちは子どもを褒める時に『おまえは魂の深か子じゃね』と言うんです。『勉強ができるそうだね』とは言わない。(中略)要は、人様を思いやることができるかどうかだと思います。そういう心根のやさしさを、どうやって身につけていくかでしょう」(08年)

 「私の触れた限り、人様を思いやる倫理の高さというか深さは、純然たる方言の世界にありましたから。自分の思いを標準語に置き換えて出すと、もともと持っていた情感みたいなものが抜け落ちてしまう。心を表現するのに、ことばはとても大切です。だから、方言を大事にしたい」(同年)

 「日本の近代は壊れてると思いました。まず、水俣病ですね。チッソは罪悪感を持ってませんから。海を汚し、豊かな漁師さんの生活を壊して、気がつかない。近代化は鈍感な人間を大勢作り出してきた」(同年)

 「(水俣病患者の人たちには)日本語では言霊の世界だろうと思うんですけど、神信心をする人たちがいっぱいいる。(中略)神様のいらっしゃる地図をみなさん、心に持っている。そして、教えあって、連れ立ってお参りに行きます。原日本って、そうだったと思いますよ。それが『近代』と称するものに追いやられて」(同年)

 「水俣病でいちばんつらかったのは、人とのきずなが切れたと感じるときでした。政治家や企業人のなかには、患者さんが魂の底から発する言葉さえ通じない方がいました」(11年)

 「(東日本大震災について)息ができなくなっていた大地が深呼吸をして、はあっと吐き出したのでは。死なせてはいけない無辜(むこ)の民を殺して。文明の大転換期に入ったという気がします」(11年)

 「(1908年に)工場ができたのが、村だった水俣の発展の第一歩で『街の人間になっとぞ』と喜んだ。水俣の人は何でも神様にするんです。チッソも。純情でね」「患者が補償を求めると、チッソの担当者は品物の値段を下げるような態度でね。批判すると『ここは文学の場所じゃありません。交渉事です』と言われた。それで患者さんが初めて『会社への義理は切れた』とおっしゃった」「患者さんたちは以前、『行政は親様。子どもをうしてなさる(見捨てなさる)はずがなか』と信じておられた。でも、補償交渉で上京したら『水俣は日本の国じゃなかごたる』と失望されていた」(12年)

 「判決という形で出てくる言葉は、合理的なようで冷たいですね。もうちょっと庶民の言葉に直して考えたい。『まあ、今まできつうございましたねえ』って、言うてよかそうなもんと思う」「人柱でした。水俣病事件というのは。次の文明に進むための」(13年、水俣病の未認定患者をめぐる最高裁判決後に)

 「水俣病の公式確認から今年で60年を迎えました。でも水俣病のことを考えるには、この60年の背後に、はるかに分厚い時間の層があったことを、まず思い浮かべてほしいと思います。『魚(いお)湧く海』と言われた不知火海のほとりで、天の恵みを必要なぶんだけ分けてもらっていた人々の、何代にもわたる暮らしが積み重なった時間の層です」「行政は今からでも、患者さんを見つけ出すための健康調査をするべきです。(中略)チッソの工場でつくられた化学原料が、日本の近代化を、高度成長を支えました。私たちの暮らしが豊かになる代償として、苦しみをその身に引き受けた方々です。亡くなるのを待つ、などということは決してあってはならないのです」(16年)

*朝日新聞などでの寄稿や対談、インタビューなどから紹介