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被爆体験、沈黙強いられ半世紀「最後に妹を見たのは…」

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ココを



被爆体験、沈黙強いられ半世紀「最後に妹を見たのは…」


アサデジより 転写 06:00

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 米軍による広島への原爆投下。その当日に犠牲になった13歳の敏子を始め、12人の「藤森家」はあの日、運命を大きく狂わされた。戦後、一家は原爆とどう向き合い、何を求めて生きたのか。それぞれが背負う記憶をたどる。

■藤森家とヒロシマ:下

 岩田(旧姓・藤森)康子〈やすこ〉(90)は、娘の礼子〈れいこ〉(65)に打ち明けていたという。

 「あの日、家族で最後に敏子(としこ)を見たのは私なんよ」

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 1945年8月6日早朝。18歳だった康子は、妹の藤森敏子(当時13)とともに、広島市牛田町(うしたまち)の自宅を出た。2人で路面電車に乗り、敏子が先に降りた。敏子が同級生らと合流して1時間15分後、原爆が投下され、爆心地から400メートルの至近距離にいた敏子は、二度と帰らなかった。


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 康子がそんな話をし始めたのは、戦後も半世紀が過ぎてからだ。あまりにひどい体験に、沈黙を強いられる被爆者は少なくない。

 康子は日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)の事務局次長、藤森俊希〈としき〉(73)の9人きょうだいの2番目の姉。戦後、夫が若くして病死し、女手ひとつで2人の子を育て上げた。

 働き詰めでふだん、子どもたちに被爆体験を語らなかった。毎年8月6日の平和記念式典の中継をテレビで見ながら、黙禱(もくとう)する程度だった。転機となったのは、原爆投下から50年後の阪神・淡路大震災だった。

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 娘の礼子が、神戸市長田区で一人暮らしをしていた。95年1月17日午前5時46分。マンション3階の自室で家具が宙を飛び交った。トイレの窓から脱出した。「妻が中にいる! 誰か助けて!」。倒壊した長屋で、高齢の男性が叫んだ。火の手が上がる。礼子は近所の住民とがれきから男性の妻を引っ張り出した。手足が力なく垂れ下がり、息もない。男性は涙を流し、途方に暮れていた。

 岡山県倉敷市で新たな生活を始めた礼子の元を、母の康子はほぼ毎月、広島から訪ねるようになった。「大変な時でも、体が元気ならどうにでもなる」。康子は励ました。原爆と震災。規模も経緯も違うが、一瞬で家と街を喪失した娘と自分を重ね合わせたのかも、と礼子は思う。康子はこのころから、自らの被爆体験を少しずつではあるが、礼子に話し出した。

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 あの日、康子は敏子が降りた路面電車で、爆心から約10キロ離れた五日市町(現・広島市佐伯区)に勤めに出ていて無事だった。翌日、牛田町の自宅へ。焼かれた人が、川を埋め尽くしていた。助けを求められても、何もできなかった。自宅の焼け跡にたどり着くと、母のカスミがトタン板の上に座り、1歳4カ月の俊希を抱いて泣いていた。

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 康子の話は生々しいが、断片的でいつも同じ内容だった。しかし礼子はそれ以上、聞かなかった。「思い出したくない記憶もあるだろう」と考えていた。礼子は震災後、テレビで地震や火事の映像を見られなくなった。見ると吐き気がする。ほかにも、思い出したくない記憶があった。

 「どういう子どもが生まれるかわからない。被爆2世でしょ」。73年、20歳で結婚する直前、婚約者の母親に言われた。根拠がないとわかっていたが、傷ついた。子どもは3人欲しかったが、産まないと決めた。夫とはその後、離婚した。

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 康子は認知症が進み、今は岡山県内の特別養護老人ホームで暮らす。「カスミさんがご飯を食べなさいって」。介護する礼子が呼びかける。さじを近づけても口を開かない時は、亡き母や妹の名前を出すと、不思議と食べ始めるという。礼子に被爆体験を語ることはおそらく、もうない。

 今年3月、礼子は米ニューヨークの国連本部で核廃絶を訴える叔父の俊希を、テレビで見た。「つらい思いをしてまで全員が語らなくていい。でも、使命感を持って活動する叔父のことは、心から応援しています」

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■母の涙が土台にある

 6月15日夜。東京・渋谷のライブハウス。1歳のとき広島で被爆した藤森俊希〈としき〉(73)が自分と家族の体験を語った。核兵器禁止条約の採択を間近に控え、若者が企画したイベントに飛び込んだ。広島出身で被爆3世の女性歌手、Metis(メティス)がステージに上がり、マイクを握った。

 母よ 母よ 感謝してます 私を生んでくれて ありがとう

 俊希が、手元の紙に歌詞を書きとめた。「私も母に感謝している。こうやって被爆体験を話せるのも、母が毎年、涙ながらに話してくれたことが土台にある」

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■母の涙が土台にある

 6月15日夜。東京・渋谷のライブハウス。1歳のとき広島で被爆した藤森俊希〈としき〉(73)が自分と家族の体験を語った。核兵器禁止条約の採択を間近に控え、若者が企画したイベントに飛び込んだ。広島出身で被爆3世の女性歌手、Metis(メティス)がステージに上がり、マイクを握った。

 母よ 母よ 感謝してます 私を生んでくれて ありがとう

 俊希が、手元の紙に歌詞を書きとめた。「私も母に感謝している。こうやって被爆体験を話せるのも、母が毎年、涙ながらに話してくれたことが土台にある」

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 俊希の母カスミは毎年8月6日、家族全員を連れ、広島市牛田町(うしたまち)の自宅から、爆心地に近い広島市立第一高等女学校の慰霊碑へ向かった。家族で唯一、原爆が投下された日に犠牲になった、当時13歳の敏子(としこ)の名が銘板に刻まれている。俊希も手に数珠を握らされた。

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 帰宅して6畳間に車座になると、母は敏子を捜して市内をさまよった記憶を語る。水槽に頭を突っ込んだ遺体、パンパンに腫れた顔、すさまじい悪臭。

 涙を流して話す母に、俊希は尋ねた。「そんなにつらいのに、なんで原爆の話をするの?」。母は答えた。「あんたらに、二度と同じ体験をさせとうないからじゃ」。15年前に98歳で亡くなるまで、カスミの慰霊碑巡礼は、毎年続いた。

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 俊希が被爆体験を語り始めたのは、定年退職後、田舎暮らしにあこがれる妻と過ごすため、2006年に長野県茅野(ちの)市へ移住したのがきっかけだ。62歳で県原爆被害者の会に入会すると、80代半ばだった当時の会長は「若いのが来た」と喜んだ。中学生に被爆証言を語るよう頼まれた。母から繰り返し聞かされた悲惨な情景は、用意した1万2千字の原稿を見ずとも、自然に口をついた。

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 あるとき、被爆体験を聞いた子どもの感想文に、こんな一文を見つけた。「今はそういう時代じゃないので、私たちは幸せです」

 それは違う。被爆で苦しんでいる人は今もいる。世界には大量の核兵器が今もある。広島・長崎への原爆投下は、途切れることなく今とつながっている。そのことを伝えるのが、自分の使命だと思い定めた。

 10年に県原爆被害者の会の会長を継ぎ、12年には日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)の事務局次長に就任した。

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 今年7月7日、米ニューヨークの国連本部。「賛成122、反対1、棄権1」。大型スクリーンが、核兵器禁止条約の採択を示していた。各国代表の歓喜の輪の中で、俊希も手をたたいて喜んだ。

 記者に囲まれると、こみ上げる涙をぬぐい、声を振り絞った。「命を落としたたくさんの方々を思い起こし、『ついに核兵器を禁止する条約ができましたよ』と報告したい気持ちが募っておりました……」

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 日本政府は「核兵器国と非核兵器国の対立を深める」として条約交渉に参加しなかった。「はらわたが煮えくりかえる思いだ」。俊希は憤った。確かに核保有国の参加が見込めない現状で、実効性は不透明だ。「今日は記念すべき日だが、同時に核兵器をなくすスタート。へこたれない」

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 今月6日、俊希は3年ぶりに「原爆の日」を広島で過ごす。一昨年はノルウェー、昨年は長野で被爆体験を話していた。今年は姉の敏子の慰霊式で、禁止条約ができたよと報告する。

 「これは、『核兵器のない世界を実現するためにこれからも努力します』という、自分自身への決意表明なんだ」=本文敬称略(久保田侑暉、左古将規、辻村周次郎、宮崎園子

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平成・25年の …………




追記、、、09:10!!!

子供の 言葉のあとに………
…… 一国の TOP の speech にしては

拍子抜けしました
神妙な面持ちで…………
映ってました( NHK )、、、、、、

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by tomoyoshikatsu | 2017-08-06 08:00 | 反戦