佐戸未和さんの両親が記者会見の冒頭に話した内容は次の通り。(一部省略しています)

■佐戸さんの父親の発言

 佐戸未和の父です。私たちの長女、佐戸未和の過労死については10月4日にNHKから公表があり、その後各メディアからNHKの発表内容に基づいた報道がされてきました。しかし、私たちの思いが正確には伝えられていないことや、事実誤認もありますので、未和と同じ記者の皆様には、私たち夫婦の口から直接お話をさせていただいたほうがよいと考えて本日お集まりいただきました。

 本日まずお話しするのは、娘を過労死で失った両親の思いということで、9月26日に私と妻がNHKの幹部の方にお話をしたものです。一部はNHK公表後の両親のコメントとしてすでに出しております。未和はNHKを恨んで死んだわけでもなく、憎んで亡くなったわけでもありませんが、記者として自分の過労死の事実をNHKの中でしっかり伝えて再発防止に役立ててほしいと、天国でも望んでいると、私たちは信じています。

 私がNHKでお話をしたことは4点ほどございます。まず1点目は、4年前の未和の過労死の事実を、どうしていま表に出すのかという点。2点目は、労災を申請した当時の私たち夫婦の心情。3点目は、未和の急死の連絡を受けた当時の状況。最後に、未和の長時間労働の、過労死の発生原因について、私たちの思いということについて話をしました。

 まず1点目ですが、4年前の未和の過労死の事実をどうしていま表に出すのかという点です。NHKの局内で、未和の過労死についてきちんとしたけじめがつけられていないと考えていました。このままでは、NHKの記者であることに誇りと愛着を持って職責を全うして倒れた未和の足跡がNHKには何も残らず、過労死の事実も伏せられたままいずれ風化し、葬り去られるのではないかという危機感がありました。

 我が家には毎年、未和の命日7月24日ですが、この月の前後にかけて、未和と親交のあった多くのNHKの方々が焼香にみえますが、その方々から未和の過労死の事実がきちんと局内に継承として伝えられていない、NHK内部の働き方の改善や制度改革の背景に何があったのか共有も伝承もできていないという声をたくさん聞きました。私たち夫婦は、未和はNHKの働き方改革のための人身御供になったと思っていますが、NHK内部では初めての記者の過労死であり、不名誉な案件として表に出さない方針にしているのではないか。また一般社員を守る立場にある組合も黙っているのはなぜか、これに加担しているのではないかと疑念を持っておりました。

 未和の過労死がどうして起こったのか、NHK内でしっかり自己検証もされておらず、誰も責任をとっていないのではないかと感じています。未和の過労死をNHKのなかで伏せるのではなくて、ちゃんと出してNHKの働き方改革推進の礎になっているということを社内の皆さんに知ってほしい。それが、未和がNHKで働いてきた証しとなり、社内での過労死の再発防止にもつながると思うようになりました。一方で、かけがえのない長女を過労死で突然なくした私たち夫婦に、NHKは真摯(しんし)に向き合っていない、親の心情に配慮もしてくれていないという不信感もありました。

 電通事件をはじめ、長時間労働による過労死問題については、社会の目は厳しくなっており、NHKでもニュースや特番を組んで、社会の木鐸(ぼくたく)として世の中に警鐘を鳴らしていますが、NHKは自らに起こったことには棚上げしたままではないかと、私たち夫婦は怒りの目をむけていました。過労死関係のニュースや番組の制作、放送の現場で、実際に取材や編集や解説等にあたっている方々が、自分の会社の記者が過労死で命を落としている事実も知らない。自らの襟も正さずに、報道や解説をしている姿を、私たち夫婦がどんな思いで見ているか、想像して頂きたいと思います。

 未和の過労死をNHKは決して忘れず、遺族の心情に寄り添ってくれていると私たちが感じたことはありません。未和が亡くなって4年たちますが、労基署による労災認定後も、NHKから謝罪の一言もありません。社員の過労死に対して誰もおとがめなしということは、普通の会社や組織ではあり得ないと思いますが、NHKでどなたか責任をとられたのか、何か処分があったのか、私たちは何も知らされていません。未和の命日でさえ、今年は私たちから連絡をするまで、NHKの職制からはなしのつぶてでした。なぜいまごろ表に出すのか、という私たちの気持ちをご理解いただければ幸いです。

 ログイン前の続き次に、労災を申請した当時の私たち夫婦の心情です。2013年10月に渋谷労基署に、正式に未和の労災申請を出しましたが、その中に私の陳述書があり、最後のページに当時の思いを記しています。そのまま読ませていただきます。

 「未和が生まれたのは私が31歳のときでした。結婚し、最初の子どもである未和が生まれ、人生いまから、と高揚感にあふれていました。その同じ31歳で、未和は突然この世から去ってしまいました。道半ばに達することもなく人生を断たれた未和の無念さ、悔しさを思うと哀れでなりません。親としてわが子を守ることができなかったという深い後悔の念にさいなまれながら、なぜ未和が突然死んだのか、何か予兆はなかったのか、かける手立てはなかったのかと、未和の遺影と遺骨に問いかける毎日です。

 私は未和からNHK入社後の最初の赴任地である鹿児島、その後に異動した首都圏放送センターでの記者としての勤務はどういうものか、よく聞かされていました。機械メーカーで長年営業に携わってきた私のような一般の会社員の感覚からすると、24時間臨戦態勢のような記者の勤務は肉体的にも精神的にも過酷の一語に尽き、生活も不規則で、あの小さな体でよく頑張っているなといつも感心していました。未和はハードな生活にほとんど弱音をはかず、周囲にも優しく接しながら、自分で選んだ仕事に誇りを持って記者としてのキャリアを一歩一歩積み上げていました。私は未和にエールを送りながらも、一方で未和が記者という仕事に必然的に伴う不規則な生活を長い間続けることで、身体や健康がむしばまれることを親として非常に心配していました。未和には会うたびに、我が身の健康第一をいい、命より大事な仕事などこの世にはないことをくどいほど伝えてきたつもりです。そのため、未和も自分の身体や健康には留意していましたが、これまで酷使してきた体には澱(おり)のように疲労が蓄積していたのだと思います。

 NHKが総力をあげた平成25年夏の都議選参議院選の取材では、未和は都庁クラブで一番の若手であり、独身で身軽なため、それこそ寝る間も惜しんで駆け回っていたようです。後日、NHKから提示された未和の勤務表を見たときに、私は泣きました。待ったなしの選挙取材で時間に歯止めはなく、土曜も日曜もなく、ほとんど連日深夜まで働いており、異常な勤務状況でした。疲労困憊(こんぱい)していようが、体調が悪かろうが、途中で戦線離脱などできるはずもなく、自分の体にむち打ちながら、とにかく選挙が終わるまで突っ走るしかなかったのかもしれません。これまで無理を重ねてきた体に、夏の選挙取材中の過剰勤務が決定的なダメージを与えたのではないか、との思いをぬぐいきれません。未和は短い人生を駆け抜けるようにして逝ってしまいましたが、親として未和の急死をもたらしたものが何であったかを知りたい、今年の夏の異様な勤務時間との因果関係を明らかにしたいという一念で、今回労災申請をすることに決意しました」

 次に、未和の急死の連絡を受けた当時の私たちの状況です。未和が亡くなった2013年7月24日当時、私はブラジルのサンパウロに駐在していましたが、9月の早々には正式に帰任が決まっていたために、後任への引き継ぎやあいさつ回りなどに追われていました。現地時間の7月25日の午後2時半ごろ、日本時間の7月24日の深夜2時半ですが、首都圏放送センター都庁クラブのキャップの方から私の携帯に直接電話があり、未和死亡の連絡が入りました。原因も死因も不明で、状況も分からず、錯乱状態になっている妻を引きずるようにして最短便で現地を発って、2日後の7月27日にようやく日本に戻り、変わり果てた未和に対面しました。夏場で遺体の損傷も激しいために、翌々日に葬儀をすませ、後始末をしたうえで、放心状態が続いている妻は次女と長男に託して、いったん私はサンパウロに戻り、9月4日に正式に帰国をしました。12年にわたる長いブラジル駐在を終えて、帰国する直前にかけがえのない娘を突然奪われた自分の運命と天を呪いました。家内は、私と私の会社をうらみ、夫婦ともども未和を失った喪失感と悲しみと苦しみに毎日のたうち回るような日が続きました。

 現地にいた私と未和とは、メールや電話でよく近況を連絡しあっていました。6月26日の未和の誕生日に私が打ったメールに対して、いままでめったに弱音を吐いたり、泣き言を言わなかった未和が初めて弱気になっているメールを送ってきました。内容をご紹介しますが、未和の勤務記録に記載されている当時の勤務時間と照らし合わせると、へとへとになっていたのだなと後日分かりました。

 未和のメールです。

 「パパへ。メールありがとう。なかなか悲惨な誕生日だったけど、なんとか体調も戻ってきたよ。都議選は終わったけど、もう1カ月もしないうちに参議院選、それが終わったらすぐ異動だよ。忙しいしストレスもたまるし、1日に1回は仕事を辞めたいと思うけれど、ここは踏ん張りどころだね。この年になって辞めて家事手伝いになると、結婚もできないわ。7月には一時帰国するのかね。忙しい人は仕事を辞めるとぼけたりするっていうから、楽しみをたくさん見つけておくといいね。それじゃまたね。未和」

 最後に未和の長時間労働と過労死の発生原因についての私たち夫婦の思いを。労災申請にあたって未和の勤務記録、タクシーの乗降記録、パソコンでの受発信記録、携帯での交信記録などをNHKから入手して整理する途上で、NHKの当時の職制の方と何度かお話をしてきましたが、「記者の働き方は裁量労働制で、個人事業主のようなものだ」という発言が何度か出てきました。出勤時間も休憩時間も自分の裁量で自由にできるという立場にあったということでしょうが、取材テーマを追う本来の記者の業務ならともかく、時間も手順も決められた短期集中の選挙取材業務は待ったなしではありませんか。都議選参議院選と続いた選挙取材で、連日連夜深夜まで働き、土日も休めず、亡くなる直前の1カ月間の時間外労働時間が、私たちが労基署に出したのは209時間。その前の月が188時間というような状況がなぜ放置されていたのか、私には理解できません。

 記者は個人事業主だから細かい管理はしないという職制の意識が、部下の日々の残業時間のチェックもコントロールもせずに、結果的にこれほどの長時間労働を強いて、過労死に至ったのではありませんか。部下の健康と命を守るために、労働時間の管理は日々きっちりやるという職制の意識があれば、またそれをさせる組織のルールが厳格であれば、未和は死なずに済んだはずです。

 職制の労働時間管理のずさんさに加えて、一つのグループ、あるいはチームとしてのあり方にも問題があったような気がしています。都庁クラブは男性キャップの下に、男性のベテラン記者3名と、一番若い独身の未和をあわせて5名での選挙取材態勢であり、皆さんそれぞれ大変だったことと思います。しかし、普通の会社の組織では、若い女性社員が連日連夜、深夜残業、土日出勤という状態がずっと続けば、誰かがアラームを出して、助け舟を出すなり、外部からサポートを呼ぶなり、改善に向けて協力して助け合うはずです。チームの皆さんは横目で未和を眺めながら、個人事業主を決め込んでいたのでしょうか。自己管理できなかった未和が悪かったのでしょうか。私たちには未和が亡くなった当時のチーム全員の勤務記録を見せてくれという思いがあります。

 未和の100カ日の法要に都庁クラブの同じチームの方もみえました。その夜の会食の席で、家内がその方に「未和は我が家のエースでした」と言いました。その方は、びっしり埋め込んだ自分の手帳を見せながら、こう言われました。「要領が悪く、時間管理ができずに亡くなる人はエースではありません」。同じ職場にいた方の言葉とも思えませんが、当時の都庁クラブのチームワークの実態を垣間見る思いがします。個人事業主の意識の強いグループで、一番弱い未和が犠牲になったのではないかと思うと、親としてはやりきれません。

■佐戸未和さんの母親の発言

 すみません。亡き未和に対する母の思いを稚拙ながら述べさせていただきたいと思います。私の幼い文章で申し訳ございません。

 娘は、かけがえのない宝、生きる希望、夢、そして支えでした。娘亡き後、私の人生は百八十度変わり、もう二度と心から笑える日はなくなりました。未和という名前は「未来に平和を」ということで、未と和をつなげて、考え抜いてつけました。うまれた当初は私の実家のある長崎市におりました。つわりがひどく難産だっただけに、玉のような女の赤ちゃんと出会えたときは、本当に奇跡だと幸せをかみしめていました。すくすくと順調に育った未和は、親ばかと思われるかもしれませんが、才気煥発(さいきかんぱつ)で他の子にない光るものを持っているように感じていました。

 未和が1歳半になったころ、コロンビアに単身赴任中だった夫が帰国、最初こそ怖がりましたがすぐに慣れました。ちょうどその頃、テレビの子ども番組「おかあさんといっしょ」が長崎で収録、出演させて頂いたのがNHKとの最初のご縁でした。

 未和5歳、次女3歳、長男1歳。東京に転居。東京には親戚も知り合いもなく、夫は海外出張が多く、一人で3人を育てる日々は無我夢中でした。私の長崎の父が倒れたときは、当時3歳の長男だけを連れて東京と長崎を何度も往復、その頃から未和はお姉ちゃんとして下の子たちの面倒をみるようになったと思います。私も次第に精神的に未和に頼るようになっていました。

 一橋大学法学部へと進んだ未和は、私のすすめで、TBSで大学生がやっていた「BSアカデミア」に関わり、本格的に報道の世界に興味を持ち始めました。未和は我が家のエースでした。が、一番の親孝行者が、一番の親不孝者になりました。

 NHK入局後の最初の赴任地は鹿児島。母娘ともに有頂天になりながら電化製品、必要な家具を買いそろえ、任地に送りました。長崎の親たちの介護の帰りにわくわくしながら4回ほど鹿児島に行きましたが、未和は仕事で時間がとれず、一緒の思い出は残念ながら皆無でした。亡くなった後わかったことですが、彼女は持ち前のがんばりで、拉致問題でもずいぶん活躍したそうです。

 平成22年、念願の東京勤務が決まりました。一度、未和が都庁近くのホテルで昼食をごちそうしてくれたことがありました。バタバタバタと来て、さーっと職場に戻る姿は、今でも目に焼き付いています。そこで珍しく未和がぼやいていたことは、都庁クラブでの人間関係が鹿児島時代とはまったく違って希薄だということでした。それでももう少し頑張ってみる、ということで口出しは控えました。

 その後、未和の引っ越しに次女と2人で手伝いに行ったときには驚きました。暑い夏の盛りに、私たちはただぼーっとテレビをみている間に、未和は1人でちゃちゃっと立ち働き、ハヤシライス、キュウリトマトのサラダをつくってくれたのです。学生時代の未和からは考えられない手早さに、仕事が人間をつくるってこういうことなんだなあと感心しました。また、後にも先にもたった1回だけ実家に泊まりにきてくれたことがありました。私がいろいろと作った夕食をまるで飲むように平らげ、ささっとカラスの行水。自分でヨガを済ませると、すぐお布団へ。あまりのスピードぶりにぽかんとしていると、未和は「記者は早飯、早なんとかで、食べられるときに食べ、寝られるときに眠るんだ。ママも早く寝てよ」と言ったのでした。彼女は眠ったあと、私は天にも昇る気持ちで、未和がいとおしくて、いとおしくて、眠るのがもったいなく、いつまでもおでこをなでていました。未和のにおい、未和の体の温かさ、私はこれからも忘れることはありません。

 NHKの朝の連続ドラマ「おひさま」の主題歌が、まさに未和のイメージにぴったりで、当時はこの歌をずっとイヤホンで聴きながら未和を感じていました。もう少し、もう少しで夫が帰ってくる。普通の生活ができる、結婚が決まっていた未和の手伝いができる、と黙々と家事に励んでいた日々。しかしながらもうこの曲を聴ける日はなくなりました。

 平成23年5月1日、夫の完全帰国準備のためサンパウロ行きになり、未和との連絡はラインとなりました。7月17日、未和から「横浜局の県庁キャップになりました。また忙しくなりそう。涙スタンプ」。「おめでとう」と言うと、「めでたいかどうかは謎だね。泣き顔スタンプ」。日本の夜7時のニュースがサンパウロの朝7時のニュース。別の部屋にいたので途中から気づき、「以上、選挙報道でした」という未和の最後の声が、今でも耳に残っています。

 未和の死後、私は私ではなくなりました。入退院を繰り返し、強い薬を5錠服用し、「どうぞこのまま心臓が止まりますように、息が止まりますように」と眠りにつく。だけど朝はくる。目覚める。つらいです。親たちのみとりは最後まで完璧にやったのに、なぜ最愛の娘をみてやれなかったのか、自分を責め続けています。私は子育てのみに夢中でした。ほかにこれといった趣味や特技もなく、子どもが成長したあかつきにはお手伝いをすることだけが私のたった一つの望みでした。もう、その望みがかなうこともありません。この苦しみを背負う人が今後、決して二度と現れないことを切に願っております。失礼しました。(村上晃一、千葉卓朗)