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大田昌秀 氏死去

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 沖縄戦を経験し、生涯、反戦を主張し続けた元沖縄県知事大田昌秀さんが亡くなった。米軍の基地問題を訴え、知事時代は国とも激しくぶつかった。志半ばで逝った6月12日は、大田さんの92歳の誕生日でもあった。

沖縄戦の記憶、胸に

 12日は誕生日で、病室に家族や琉球大教授時代の教え子ら5、6人が集まり、ベッドを取り囲んでいた。午前11時半からの誕生会。主治医や看護師も一緒に「ハッピーバースデー」を歌う様子を、目を輝かせて見ていた。歌が終わると、すーっと眠るように息を引き取った。11時50分だった。

 みとった教え子の一人で元沖縄タイムス記者の玉城真幸さん(75)は「覚悟はしていたが、本当に残念」と話した。ここ数日はほとんど話ができない状態だったという。

 玉城さんは卒業後も大田さんとの付き合いを続けてきたが、話題はいつも政治のことばかり。それでも、戦争体験が、かさぶたを破るように噴出したことがあった。本土復帰の直前、バーで酔った大田さんは取りつかれたようにジュークボックスでひたすら「艦砲ぬ喰(く)ぇーぬくさー(艦砲の食い残し)」をかけ続けた。沖縄戦で生き延びた人々の心境をつづった歌。「恐ろしくて……。多くの級友を失ったすさまじい重みをいつも背負っていたんでしょう」

 ログイン前の続き大田さんは知事時代の1995年、沖縄戦の犠牲者らの名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」を糸満市に建設。98年の知事選に敗れた後は平和研究所を私費を投じて設立した。

 大田県政で出納長を務めた元参院議員の山内徳信さん(82)は「地獄を生き残り、政治の地獄も見ながらも、常に亡くした級友らへの思いを胸に抱いていた」と話す。

 大田さんと県議会で激しい応酬をしたこともある翁長(おなが)雄志(たけし)知事は「終始一貫、平和や基地問題に不退転の決意で臨まれた」と述べ、哀悼の意を表した。

■怒りと覚悟、国と対決

 95年9月に米海兵隊員らによる少女暴行事件が起きると、県民の怒りはうねりとなって日米両政府に突きつけられた。

 8万5千人(主催者発表)が集まった県民総決起大会で、当時知事だった大田さんは「沖縄は日米両政府に協力してきた。これからは両国政府が沖縄に協力する番だ」と迫った。さらに、米軍に土地を提供するため地主に代わって署名をする「代理署名」を拒否し、国との訴訟に発展した。

 米軍用地の強制使用をめぐる国との代理署名訴訟で弁護団事務局長だった池宮城紀夫弁護士は96年7月、最高裁大法廷で大田さんが「沖縄の基地問題は、日本の主権と民主主義が問われる日本全体の問題ではないか」などと訴えた姿が印象に残っている。池宮城さんは「沖縄の民意を無視する政府や本土の人へ厳しく問いかけた。自治体が国にあらがうのは簡単じゃない。大変な覚悟を決めて相対していることがひしひしと伝わった」と振り返る。

 沖縄近現代史が専門の新崎(あらさき)盛暉(もりてる)・沖縄大名誉教授(81)は「民意に突き動かされ、国家権力と対決した。民衆の運動を味方にしてきた点は評価でき、果たした歴史的役割はあった」と評価する。一方で、代理署名訴訟で県が最高裁で敗訴すると、早い時期に軍用地の強制使用に関する公告・縦覧の代行に応じた点などに触れ「初志貫徹できず、ふらついた。その点では、限界もあった」と話す。

 沖縄戦の研究家で沖縄国際大名誉教授の石原昌家さん(75)らが共同代表を務める団体は今年2月、大田さんをノーベル平和賞の候補に申請した。知事時代に平和の礎の建立を進めた大田さんが沖縄の代表として適任と思ったからだ。

 翌3月、平和賞へのノミネートの連絡が来たが、受賞は実現しないままだった。石原さんは「先生の遺志を後世に伝える努力をしないといけない」と語った。

朝デジより転写
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1935・沖縄


by tomoyoshikatsu | 2017-06-15 12:12 | 平和