日本初のダム式水道で、「本(ほん)河内(ごうち)ダム」の通称で知られる本河内水源地水道施設(長崎市)が、国の重要文化財に指定される見通しとなった。国の文化審議会が19日、文部科学相に答申した。明治中期の建築技術の水準を示している点が、高く評価された。
本河内水源地水道施設は高部(こうぶ)堰堤(えんてい)(高部ダム)と低部(ていぶ)堰堤(低部ダム)の、上下二つの堤防と、その配水施設などからなる。
高部ダムができたのは1891年。長崎市史によると、外国人居留地があった長崎では当時、コレラや赤痢など海外由来の伝染病が、井戸水などを通して流行。列強の圧力もあり、上下水道の建設が急務とされた。
県が招き、ダム建設の指揮をとったのは工部大学校(現・東大工学部)助教授の吉村長策(ちょうさく)だった。弱冠25歳で抜擢(ばってき)され、市内の下水道整備にも携わった。
築かれた高部ダムは、土でできた「アースダム」。水の浸透を防ぐため、つぶの大きさが異なる複数の土が使われた。建設作業は人力で行われた。
特徴は堤防の中央部にある階段と、土堤のトンネルの入り口の意匠。いずれも石造りで、岡林隆敏・長崎大名誉教授(近代土木史)は、「伝統的な石工の技術が残っていたころにしかできない造り。新しい時代を創るぞ、という明治期の気迫も感じる」と語る。
だが高部ダムが完成して間もなく、市内の人口増で水が不足し、追加のダム計画が持ち上がった。低部ダムの建設は西山ダム(同市)と一体で進められ、1903年に完成した。
低部ダムは、国内のコンクリートダムとしては神戸市の五本松(ごほんまつ)堰堤に次いで2番目に古い。吉村長策の監督で、「上下二つのダムで、技術革新のあとを見ることができる」と岡林氏。
ダムというとなじみが薄いが、本河内ダムは「市民が建設したダム」(岡林氏)。高部ダムの建設費は30万円。これは当時の長崎区(現・長崎市)の年間予算の7・5倍だった。反対の声もあったが、地元財界の支援などでまかなった。「長崎の水道は、市民の財産です」と岡林氏。(真野啓太)
友人が 近くに住んでいるはずです、、、まだ!!!
長崎の「 水瓶 」の ひとつです、、、、、
大村から、、、分けてもらう事も、、、( 萱瀬 ダム )、、、
むかし、、、 友人とその娘!私で……… 散歩で 来てました
その頃より 綺麗になった!と 、、、、、!