ナガサキノート & 「 はらぺこ あおむし 」と 〈 平和 〉

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■田崎昇さん(1944年生まれ)

 日本政府が核兵器禁止条約の交渉会議への不参加を表明した3月、被爆地・長崎からは政府の対応に抗議し、批判する声が相次いで上がった。NGOなどの市民団体と長崎県、長崎市でつくる核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委員会も急きょ記者会見を開き、「核兵器国と非核兵器国の橋渡し役に徹してきた日本の役割を放棄する宣言にも聞こえる内容だった」と政府を批判した。その場に、田崎昇(たさきのぼる)さん(73)もいた。

 田崎さんは元長崎市職員。初代の平和推進室長を務めるなど、市役所勤務のうち23年間は平和関係の仕事に携わった。退職後は大学院で核兵器廃絶の理論を学んだ。現在も核をめぐる市民運動に関わる。「経験を生かしてお手伝いはするけれど、私は運動を引っ張っていく人間ではない」と言う。終戦前年に生まれ、戦後は諸谷義武氏、本島等氏、伊藤一長氏と3代の市長のもとで平和行政に携わった田崎さんに、平和都市・長崎の歩みを聞いた。

 田崎さんは1944年、当時の時津村横尾(現在の長崎市)に生まれた。実家は長崎近郊の農家で、8人きょうだいの下から2番目だった。きょうだいの名前には戦時中の世相が表れている。4番目の兄は正勝(まさかつ)、次の兄は力(ちから)、そして昇(のぼる)。戦後に生まれた弟は栄(さかえ)と名付けられた。

 45年8月9日、1歳だった田崎さんは自宅の庭で木のたらいに水を浮かべ、水遊びをしていたらしい。爆音が響き、ガラスが割れ、わらぶきの家は傾いた。田崎さんは驚いてぎゃあぎゃあと泣いていたと後年、母から聞いた。自宅は爆心地から5・5キロ。次男の次男(つぎお)さんが家族で唯一、学徒動員中に道ノ尾で被爆してけがをしたが、ほかに被害はなかった。

 長崎市内の高校に進学するまで、原爆のことを意識したことはなかったという。兄以外に、身近に被爆者はいなかったし、原爆の痕跡を目にすることもあまりなかった。被爆体験を語るとき、「生々しい体験のない私でいいのか」と思うこともある。

 長崎市職員時代に市主催の海外原爆展で通訳もこなした田崎さんの原点は、中学時代から熱中した洋画だ。映画好きの兄の影響で、住吉の映画館に週1回のペースで通うようになった。年間100本ほど洋画を見た。中でも、米軍人の実体験を基に制作された、第2次大戦での米海軍潜水艦と日本軍との戦いを描いた「深く静かに潜航せよ」(ロバート・ワイズ監督、1958年制作)が一番のお気に入りだった。

 洋画のおかげで英語が大好きになった。長崎西高から長崎大経済学部と進学する中で、文法やペーパーテストの受験英語は得意だったが、実際に外国人と話す機会はなかった。「外国に行きたい、留学したいと夢を持っていたが、現実には難しいことは分かっていた」。1ドル360円の固定相場の時代、日本の置かれた経済状況を考えると、簡単な夢ではないことは分かっていた。

 少しでも英語に触れていたい。そんな思いで大学卒業後は大阪の繊維商社に就職した。

 時は高度成長期、会社の景気も良かった。化学繊維を製造元から発注先へと受け渡すのが仕事だった。海外への憧れがあったものの、留学を諦めた田崎さん。念願だった外国人との英会話は会社の職員研修でかなった。

 しかし、2年勤めた後に退職した。「『もうかりまっか』のような大阪の独特の風土というか、昔ながらの上方の商売の仕方に、これはついていけんと思った」。長崎へ戻り、新聞で市職員募集の広告を見つけ応募した。長崎開港400年記念事業に向け、英語ができる職員を募集していた。

 1970年に26歳で長崎市役所に入庁。秘書課渉外係で通訳や翻訳、姉妹都市などとの対外交渉の仕事を任せられた。「原爆のことに対する意識は無かった」という田崎さんは、市役所に入ったことで原爆に関わるようになっていく。

 市役所に入って5年。75年に米国テキサス州のサンアントニオと、長崎市と姉妹都市のミネソタ州セントポールで初の海外原爆展が開かれた。田崎さんも通訳として現地に同行した。米国への配慮からか、セントポールでの原爆展では長崎の文化や観光も合わせて展示した。「まだそこまで機は熟していなかった。正面から訴えるには、まだ抵抗があった時代だった」

 一方で、「少なからず市民感情に影響を与えられたと思う」と振り返る。当時の諸谷市長が全米で放送されるニュース番組に出演し、原爆のことを語った。

 退役軍人だったのだろうか、年配の男性から街中で「何をしに来たのか」と田崎さんは問われた。原爆展のことを伝えると、「日本が真珠湾を攻撃して戦争を始めたから、原爆が落ちた」と言われた。何も言葉を返せなかった。このときの体験が、後に「原爆のことを体系的、理論的に学ぼう」と市役所を早期退職して大学院で学ぶきっかけになった。

 ログイン前の続き田崎さんの市役所での経歴をたどると、1970年代中盤から2000年代初頭にかけての、長崎市の平和行政の歴史が浮かび上がってくる。被爆から30年以上が過ぎ、ヒロシマ・ナガサキが原爆の惨禍と核兵器の廃絶を世界に向けて訴え出した時期だ。75年に開かれた米国での初の海外原爆展を皮切りに、78年には第1回国連軍縮特別総会でも原爆展を開催するなど、田崎さんはその多くに現場で立ち会ってきた。「これが今も続く海外での原爆展のベースになった」と振り返る。

 79年には本島氏が市長に就任。本島市長も国際社会への働きかけを続けた。80年代前半を頂点に冷戦下の米国とソ連の核をめぐる緊張が高まり、世界的に反核の動きが強まっていた。田崎さんは本島氏のことを「先見性と洞察力があった。非常に勉強されていた」と評する。8月9日の平和祈念式典での本島氏の平和宣言は「国際情勢を踏まえた宣言で、インパクトがあった」という。

 79年から95年まで市長を務めた本島氏を、田崎さんは徳川家康に例える。「視野が広く、先見性があり、懐が大きかった。被爆都市の使命というものを意識していた」。先代の市長の諸谷氏は豊臣秀吉、本島氏の後任の伊藤氏は織田信長だという。「諸谷さんは気遣いや心配りの人、伊藤さんは機を見るに敏なりだった」

 本島氏の平和への思いに「私たちが引っ張られていった。発言の重み、使命を感じておられた」と田崎さんは振り返る。過去の戦争への反省を踏まえた本島氏の平和祈念式典での平和宣言を「戦争の歴史、経緯も含めて訴えないと、原爆の被害を訴えるだけでは伝わらないと考えていた」と話す。「本島さんの平和宣言は文章としては悪文だったけど、聞いていると強烈なんです」。厳粛な雰囲気の8月9日の式典で、平和宣言の後に拍手が自然に起こるようになったのは本島氏が市長だった頃からではないかと、田崎さんは言う。

 被爆50年の95年、伊藤氏が長崎市長に就任した。伊藤氏は選挙中や当選時は「平和行政は国がやるべき仕事」と訴えていた。4月にあった市長選後のゴールデンウィーク、田崎さんら市の職員が伊藤氏に呼ばれ、市内のホテルに3日間こもっての「勉強会」が開かれた。平和行政担当の職員3人が課題や現状をレクチャーした。

 「平和でメシは食えない」と考えていると報じられていた伊藤氏だったが、市長就任後は「被爆地の市長がそんなことを言ってはいけない」と話すようになったという。ちょうど被爆50年で、国内外から被爆地の市長の動向や発言が注目を集めていた。「意識していたと思います」と田崎さん。被爆地の市長としての役割に「自分で気づかれた」。

 被爆から50年が経って被爆者の高齢化が進み、戦後生まれが社会の大多数を占めるようになっていた。被爆体験の継承が大きな課題だった。田崎さんは「今につながる平和行政の礎は、被爆50年に作られた」と振り返る。

 96年、田崎さんは長崎市の平和推進室初代室長に就いた。長崎原爆資料館もこの年に開館。被爆50年が過ぎ、伊藤市長のリーダーシップのもとで、「継承」をテーマに青少年に向けた平和教育の充実が図られた。田崎さんがその一例に挙げるのが、「平和教育の基本三原則」の見直しだ。

 長崎市編纂(へんさん)の「新長崎市史」によると、市教委は78年、「平和に関する教育の基本三原則」を制定。保革の立場の違いから平和教育のあり方が問題になり、「いわゆる『原爆を原点とするものではない』との否定的表現が盛り込まれた」(新長崎市史)。だが、伊藤氏は「三原則には固執しない」と表明し、見直しに着手。「原点」の表現を削除し、被爆体験の継承や平和の大切さを発信できる児童生徒の育成といった文言が追加され、被爆体験をもとにした平和教育の指導資料が作られた。田崎さんは「被爆50年の大事な時期に平和行政や平和教育の大切さをアピールした。そしてそれが今に至っている」と話す。

 市役所で平和関係の仕事を中心に関わってきて30年以上。田崎さんは「勉強不足を意識していた」という。「知識のほとんどは耳学問。実地での体験はあったが、原爆が落とされた経緯や背景を詳しく知らなかった」。被爆30年に初めて米国で開いた海外原爆展で渡米した際に現地で言われた「原爆投下は日本の真珠湾攻撃の当然の結果」という言葉に反論できなかった経験から、「もっと勉強せないかん」と思い続けていた。

 そして、2002年9月に長崎大の大学院を受験。定年まで2年を残して翌年の3月末で市役所を退職し、4月に大学院に入学した。当時58歳。およそ40年ぶりに、母校で親子ほど年の離れた学生たちと学び始めた。

 「被爆体験の体系化、思想化」をテーマにした。「原爆に関する本や人、被爆体験も知っている。しかし理論的な部分が足りない」。なぜ長崎に原爆が投下されたのか、なぜ核兵器廃絶を訴えるのか。文献を読んでゼミで議論し、リポートにまとめていった。

 修士論文のテーマは「原爆投下の是非をめぐる日米における考え方の相違」。米国に渡って、米国民の「生の声」を調べることにした。カリフォルニア大学バークリー校の図書館に2週間通い詰めて、米国の有力紙3紙の投書欄を調べた。田崎さんの調査によると、広島への原爆投下翌日の45年8月7日から31日までの間に、原爆投下に関して掲載された投書は3紙あわせて53通あった。原爆投下直後は「こんなことをしていいのか」という声が多かった。それがやがて「真珠湾攻撃で戦争を始めた日本が悪い」という声が増えていくことが、手に取るようにわかったという。「短い間であっという間に変わるんですよ」。米国政府によって世論が誘導されていったさまが見えた。

 「被爆体験の体系化、思想化」を大学院でのテーマに据えた田崎さんだったが、「答えは出ていない」のだという。本島元市長が日本の戦争責任に繰り返し言及していたように、田崎さんも「戦争への反省がないと、核兵器廃絶を訴えても世界には伝わらない」と考える。だが、原爆の犠牲になったのは何の罪もない人たちだ。

 「被爆者はある日突然、被爆者になったんです。戦争があったから被爆者になったんだと言われても、納得できないでしょう」。市役所で平和に関する業務に長年にわたって携わり、多くの被爆者と出会ってきた。「人によって考え方は違う。米国への思いも、人それぞれなんです」

 核兵器保有国は核による抑止力論を唱え続け、米国には原爆投下を正当化する声もまだある。田崎さんはいま、こう考えている。「考え方の違いにこだわっていたら、核兵器の廃絶は実現しない。違いを乗り越えていかないと」

 この5月、オーストリア・ウィーンで開かれた核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会。これまで田崎さんも米ニューヨークなどで開かれるNPTの会議に出席してきた。市職員のときは市長の随行員として、退職してからはNGO(非政府組織)の一員として。国際会議に出向き、世界に向けて被爆地から核兵器廃絶を訴えてきた。

 準備委員会を取材すると、国や国際機関の立場ではない「市民社会」の影響力の大きさに気付かされる。訴えを続けてきた被爆者の声に応える形で、赤十字国際委員会(ICRC)をはじめとするNGOが核兵器の非人道性をめぐる議論を盛り上げ、核兵器禁止条約の交渉会議につながった、とされている。

 田崎さんは大学院修了後、2009年に核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委事務局長に。昨年からは代表委員を務める。被爆医師で長崎の平和運動を引っ張った故・秋月辰一郎さんの「小異を残して大同につく」という考えが、長崎の反核市民運動の特徴だという。

 原爆投下から72年。その惨禍を体験し、記憶する被爆者の高齢化が進む。終戦の前年に生まれ、被爆時に1歳だった田崎さんは、被爆者では最年少の域に入る。

 被爆の記憶を語り、核兵器廃絶を訴えてきた被爆者がいなくなっていく中、今後は田崎さんの世代の役割が大きくなっていくのではないか。そう田崎さんに問うと、首を横に振り言った。「私は組織や運動というよりも、できる範囲でお手伝いや発信をさせてもらいたい。小さいことかもしれないけど」

 原爆の記憶もなく、身近に原爆で大きな被害にあった人もいなかった。長崎市の職員になるまでは、原爆に強い思いがあったわけではない。めぐりめぐって、市役所に入り3代の「平和市長」のもとで平和行政に関わり、多くの被爆者に出会ってきた。「今の自分があるのは仕事を通じて、仕事を超えた人付き合いをさせてもらってきたからなんです」。自分が経験し、学んできたことを伝えていくことが、自分の役割だと思っている。(山野健太郎・35歳)





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by tomoyoshikatsu | 2017-05-18 11:00 | 平和 | Trackback | Comments(0)