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「 被曝マリア 」海を渡り、、、ゲルニカ へ

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 最後の被爆地・長崎から世界で最初に無差別爆撃を受けたゲルニカへ――。原爆で倒壊した浦上天主堂の「被爆マリア像」のレプリカが4月、海を渡り、スペインゲルニカに贈られる。カトリック信徒で被爆者の西村勇夫(いさお)さん(83)=長崎市=が制作。「世界の人々に核廃絶と平和を訴えてほしい」との思いを託す。

 被爆マリア像は原爆で破壊された浦上天主堂のがれきの中から見つかった。残っているのは頭部の30センチほど。ほおは黒く焦げ、水晶が埋められていた両目は空洞になっている。

 ドイツ軍によるゲルニカ爆撃から80年となる4月、現地で記念式典があり、長崎の被爆者やカトリック信徒らも参加する。長崎からの訪問団が被爆マリア像のレプリカを現地の教会へ贈ることになり、西村さんは、カトリック長崎大司教区の高見三明(みつあき)大司教からレプリカ作りを依頼された。

 教会の祭壇や調度品を作る指物師の西村さん。これまで被爆マリア像の修復を手がけたことはあったが、レプリカ作りは初めて。「多くの方の目に触れることは意味がある。マリア様が核廃絶と世界平和を伝えてくれるのであれば」と引き受けた。

 ログイン前の続き西村さんは、原爆をかろうじて生き延びた。あの日、マリア像が飾ってあった、かつての浦上天主堂に告解へ向かった。長い列ができていた。列の前の方に割り込み、告解を済ませて戻った自宅で原爆に遭った。浦上天主堂爆心地から約500メートル。「列に並んだままだったら、間違いなく死んでいた」

 それ以降、罪の意識を抱えながら生きてきた。「一生罪人さ。どげん裁きを受けることかと」。戦後は「償いに仕事をせんば」と指物師として懸命に働いてきた。

 マリア像のレプリカは実物と同じ大きさで、ヒノキの木材に彫刻刀で彫った。「私は生かされた。マリア様を作って償いばせろ、ということやろう」。マリア様と会話し、祈りながら、彫刻刀を握る。「芸術家じゃないが、彫れば勝手に手が動く。少しずつ形ができてきて、どんどんマリア様が好きになっていく」

 西村さんも訪問団の一員としてゲルニカを訪れる。「優しい顔をなされとるじゃろ。焼けて焼かれて苦労をされて、優しい中にも目は何かを訴えておられる。一人でも多くの人に、その思いが届いてほしい」(山野健太郎)

■子どもたちが描いた平和

 長崎からの訪問団は、もう一つ贈り物を持参する。空爆の惨状を描いたピカソの名画「ゲルニカ」と同じ大きさのキャンバス(縦3・5メートル、横7・8メートル)に、長崎市の小学生が「平和」をテーマに描いた絵だ。ゲルニカ・ルモ市に贈る。

 世界各地の子どもたちが「ゲルニカ」と同じ大きさで平和のイメージを描く国際プロジェクト「キッズゲルニカ」の取り組みで作られた作品。聖マリア学院小の3、4年生約40人が、長崎原爆を象徴する被爆マリア像を中心に、学校の敷地にある教会や、ハト、ヒマワリなど、身近にある平和の風景を描いた。

 4年の野口響(ひびき)君(10)は床一面に広げた絵を前に、「ピカソは1人で描いたと思うと、すごい。すきまを一つひとつ塗っていくのが大変だけど、平和への気持ちが伝わるといいな」と話した。

 絵を監修したのは交流団体「長崎親善人形の会(瓊子(たまこ)の会)」。原爆忌の前には毎年、長崎市内の小中学校などで「キッズゲルニカ」を企画し、これまでに50点が制作されたという。(真野啓太)

     ◇

 〈ゲルニカ爆撃〉 スペイン内戦に介入したドイツ軍が1937年にスペイン北部のゲルニカを標的とした空爆。軍事目標と市民を区別しない、世界初の大規模な無差別爆撃だったとされる。爆撃を受けて、ピカソが大作「ゲルニカ」を制作した。

アサデジより!!!

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戦争をしたがるのは「 馬鹿な大人達 」

その 犠牲になるのが【 子供達 】

可笑しな事を

“ 当たり前! ”とすり込む 教育勅語!?

それを、アタリマエと 信じる おや達!!!

子供の未来は

子供達のもの



by tomoyoshikatsu | 2017-03-21 00:38 | 反核