子供たちへ 語る『 被爆体験 』

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 「72年前の夏、広島に原爆が落とされたんだよ」。千葉県八千代市の小谷孝子さん(78)は腹話術を使って人形の「あっちゃん」と掛け合いをしながら、被爆体験を子どもたちに伝えている。人形に思いを託す理由を尋ねた。

     ◇

 5歳まで呉市で生まれ育った。1944年に戦地で病気を患った父の健吾さんが他界。45年春に、母の吉恵さん、姉、兄、弟の健二さんとともに、祖母が住んでいた広島市皆実町(現・南区)に移り住んだ。

 45年8月6日の朝は、きょうだいと自宅近くを流れる京橋川で遊んでいた。ひとりでいったん自宅に戻り、水を飲んでいた時、窓の外がピカッと光り、強烈な爆風に吹き飛ばされた。

 爆心地から2・5キロ。自宅は柱を残して倒壊した。木材に体を挟まれたが、近くにいた吉恵さんにすぐに助け出された。幸いにも、2人とも軽いけがを負った程度で済んだ。

 周りを見渡すと、辺り一面はがれきの山。髪がボサボサで男か女かもわからない人や、皮膚が垂れ下がりうめき声を上げながら歩き回る人もいた。

 「これが地獄なのかな」

 ただぼうぜんと立ち尽くすことしかできなかった。

 吉恵さんが川で遊んでいたきょうだいを見つけて帰ってきた。国民学校5年生だった姉は熱線を浴びて全身にやけどを負い、3年生だった兄は割れたガラスが頭に刺さって血まみれだった。

 顔を真っ黒にした健二さんはひどいやけどを負い、意識がなかった。吉恵さんが着ていた服で顔をぬぐうと、皮がズルッとめくれた。4日後、意識が戻ったので、水を飲ませると、「お母ちゃん、飛行機恐ろしいね。お水おいしいね」とだけ言い、息を引き取った。3歳だった。

     ◇

 終戦後、吉恵さんは食堂などで働きながら3人の子どもを育てた。姉と兄のけがは良くなったが、吉恵さんは51年に白血病を発症し、まもなく亡くなった。残されたきょうだい3人は新聞配達や美容室で雑用などをしながら暮らした。

 生前、吉恵さんは戦災孤児の世話にも尽力した。友人の母親が幼稚園で働く姿が、孤児の世話をしていた母と重なり、幼稚園教諭を目指した。東京で仕事をしながら専門学校に通い、夢をかなえる。その後、結婚し、八千代市に家を構え、1男2女に恵まれた。

 腹話術を始めたのは約40年前。しゃべろうとしない園児に心を開いてもらうためだった。人形には、自身の長男の名前から「あっちゃん」と名付けた。

 長年、被爆者であることは隠してきた。「心の傷は負ったけど、体の傷は負っていない」ことで、語る資格がないと思っていたからだ。だが長女と次女が結婚する際、相手方の両親に「母が被爆者でもいいですか」と尋ねていたことを後に打ち明けられ、「被爆者は死ぬまで被爆者。もう誰にもこんな思いはしてほしくない」と強く思った。

 姉からは「無事だったからこそ、たくさんの人が死んでいくのを見たでしょ。その人たちの無念さを伝えていくのがあなたの使命」と背中を押され、2004年8月、広島平和記念資料館で初めて体験を語った。

     ◇

 弟や母が亡くなる場面を話すときは言葉に詰まることも。でも、あっちゃんが聞き役になってくれると、つらいことでも話すことができた。悲しくて口にできなかった弟の最期の言葉も、あっちゃんが代わりに言ってくれる。あっちゃんが被爆証言の「相棒」になった。

 毎年、八千代市の小学校約20校で被爆体験を話している。原爆のすさまじい被害を語ると、怖がってしまう児童も、腹話術を使うと興味を持って聞いてくれるという。

 「今では、あっちゃんが3歳の弟のように思えてきた。生きられなかった弟が、あっちゃんを通じてあの日の出来事を語っているような気がするんです」

 これからも「2人」で平和の尊さを子どもたちに伝えていくつもりだ。(泉田洋平)

アサデジより!!!


こんなコトが ………


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by tomoyoshikatsu | 2017-03-18 00:12 | 反戦 | Trackback | Comments(0)