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ナガサキノート 兵隊が奏でた 別れの曲

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■濱崎梢さん(1933年生まれ)

 兵隊がピアノに向かい、美しい旋律を奏でる。黙って弾く姿を見て、そばで女の子も黙って聴いていた。

 女の子は当時、諫早海軍病院(佐世保海軍病院諫早分院)の敷地内で暮らしていた濱崎梢(はまさきこずえ)さん(83)。戦時中の1943年か44年ごろ、病院の娯楽室での思い出だ。何度もその兵隊に聴かせてもらった曲。後になって、思い当たった。ショパンの「別れの曲」。

 兵隊は入院患者だった。大人になって思った。「ああ、あれから戦地に行くんだったんだろうな」。「別れの曲」を聞くたびに兵隊のことを思う。

 45年8月9日に長崎市に原爆が投下されると、病院は多くの被爆者の救護の場になった。「戦争ってどんなものか、よく見ておきなさい」。濱崎さんは母にそう言われ、けが人たちのいる広場に飛び出した。

 「塀の中」と呼ぶ特殊な環境の中、11歳で終戦を迎えた濱崎さん。その話を通し、子どもの目で見た戦争・原爆を記録したい。

 濱崎さんの父・板山鉄一(いたやまてついち)さんは海軍の軍人だった。軍艦に乗っていたといい、濱崎さんは幼い頃は軍港の長崎県佐世保市神奈川県横須賀市で育った。1941年12月に太平洋戦争が始まる頃には、鉄一さんは陸(おか)に上がっていたといい、佐世保海軍病院に勤めた。濱崎さんは、佐世保で玉屋百貨店に行ったり、喫茶店であんみつを食べたりした思い出がある。

 42年に長崎県諫早市の諫早駅そば、現在の諫早総合病院の場所一帯に分院の諫早海軍病院が設置されると、森山村(現・諫早市森山町)出身だった鉄一さんは諫早に転勤になった。病院といっても、もともと製糸工場だった建物で木造だった。「ふるーい木造の校舎、あれを想像して」と濱崎さんは言う。濱崎さんの一家は敷地内の官舎で暮らした。

 海軍の兵隊たちを治療するための海軍病院。濱崎さんは「子どもたちはマスコットだった」と振り返る。患者たちから「お嬢ちゃん何年生?」「今、何をお勉強しているの?」とよく声をかけられた。

 濱崎さんの胸には、ふれ合った患者たちの姿が刻まれている。

 ログイン前の続きある人は、敷地内の鉄棒でくるくると回って見せてくれた。シーソーで一緒に遊んでくれる人もいた。娯楽室では、子どもたち5、6人を並ばせて、ピアノを弾いて唱歌を歌わせる人もいた。

 病院には時折、患者との面会の行列ができたことを覚えている。ある時、一人の患者が濱崎さんに声をかけた。着物の色や特徴を言い、「こんな女の人が来ていなかった?」と聞く。だが、大勢並んでいて濱崎さんは見つけられなかった。「恋人だったのか、奥様だったのか、大人になって気持ちがわかる」

 治療を終えて戦地に行く人が、家族に送るために病院で写真を撮ることもあった。その時、「ちょっとおいで」と濱崎さんを呼ぶ人もいた。ぎゅっと肩を抱き寄せる、その力は強かった。「どんな気持ちだったのだろう」と思う。

 諫早海軍病院の敷地内には様々な施設があり、濱崎さんはその中で目いっぱい遊んだ。「戦時中でも、子どもなりに楽しみはあった」。木工所でざるを作り、機関場で焼いてもらった焼き芋を食べた。

 軍医の子どもたちとは「解剖ごっこ」をした。芋虫を切って、腸を取り出す。伸ばすと1メートルほどになった。「これをどうすると思う?」。濱崎さんからそう聞かれても、私には見当もつかなかった。答えは釣り糸。二つくらいつなげると、ちょうど良かったという。「物資不足でしたから」と濱崎さんは言う。

 諫早駅そばにあった病院。夕方になると、赤や青の着物を着て、編み笠をかぶった囚人たちを乗せた列車が、近くの線路を通り過ぎていった。物珍しくて、病院を囲む塀に登って、「怖々と見ていた」。後年、当時、列車で通学していた兄の友人から「あれは板山(濱崎さんの旧姓)の妹さんだったのか」と言われた。「今日はお姫様が出ているかどうか」と友人同士で予想し合っていたという。

 濱崎さんは戦時中、官舎があった病院から北諫早国民学校(現・北諫早小学校)に通った。

 国民学校では、持ってきた弁当を食べる昼食の時間、肩身の狭い思いをしていた。というのは、濱崎さんの弁当は白飯が入っていたからだ。父の家が地主だったため、食糧難の戦時下でも米があったのだ。だが、他の子どもは「イモを持ってくる子は良い方」。今思えばあわを食べている子もいた。濱崎さんはご飯とイモを交換していたという。

 音楽の女性の先生の姿が心に残ってもいる。パーマをかけ、軍の慰問に行く時も他の人のようにもんぺではなく、スカートをはいていた。「ほしがりません、勝つまでは」と叫ばれた時代で、「相当な圧力があったと思いますよ」。それでも貫いた姿に「ああいう戦中で、気骨のある人がいた」と語る。

 慰問の際は、子どもたちが歌を歌った。男の子は軍歌。濱崎さんは「めんこい仔馬(こうま)」を歌った記憶がある。

 44年になると、濱崎さんが暮らしていた諫早市も空襲にたびたび遭うようになった。諫早市によると、同年8月には濱崎さんのいた諫早海軍病院と線路を挟んだ向かいの栄田町などが被害を受け、1人亡くなったという。濱崎さんは、栄田町の寺が赤々と燃えるのを見た。この時、病院の敷地にも焼夷(しょうい)弾が落ちてきた記憶がある。

 国民学校で空襲警報が鳴ると、運動場に掘られた穴に潜り込んだ。きらきらと光る米軍の爆撃機が頭の上で爆弾を落としていったこともある。まっすぐ自分の所に落ちてくるのでは、と身が縮んだ。実際は、隣の大村市に向けて爆撃していたようだが、「あの怖さは忘れられない」。

 空襲警報が鳴り、友人たちと一緒に菜の花畑に潜り込んだこともある。静かになって出てみると、みな菜の花で黄色になっていた。お互いその姿を見て「ハハハハ」と笑った。「子どもは気持ちの切り替えがうまかった。怖いのは腹いっぱい怖いけど」

 戦況が悪化してきた45年からは「恐怖の中で暮らした」と語る。空襲があったら逃げるため、防空ずきんとカバンはいつもそばに置いていた。

 同年7月末ごろ、疑問に思ったことがある。軽度の患者が次々といなくなったのだ。「おかしいね。どこに行ったんだろう」と思った。重い患者だけが残ったという記憶だ。

 45年8月9日。その日は夏休みだった。官舎の玄関の前にいる時だった。あたりがピカッと光り、ガラスが全部びりびりと震えた。「割れなかったのが不思議なくらい」。爆心地から19キロほどの場所だった。

 急いで、梅林のそばに掘られた防空壕(ごう)に逃げた。当時は200メートルくらい離れていたと感じたが、実際は100メートルくらいだったのではないかと思っている。走る途中、誰かのお母さんが壕の入り口で「○○ちゃーん」と叫んでいるのが聞こえた。壕まであと1メートルほどのところで「ドーン」という爆音が響いた。

 防空壕に逃げ込んだ濱崎さんは、いったん官舎に戻ったようだ。午後3時すぎになると、病院に長崎からのけが人たちが続々とやってきた。

 濱崎さんに母・トエさんが言った。「戦争ってどんなものか見ておきなさい」。濱崎さんはその言葉を受け、病院の広場に出た。

 広場には無数のけが人たちがいた。皮膚が垂れ下がっている人、目玉が飛び出した人、髪がちぢれて性別もわからない人……。被爆者たちは簡素なむしろに寝かされていた。

 「『水、水』の大合唱だった」。濱崎さんももんぺをひかれて、「お嬢ちゃん、水をちょうだい」と求められた。濱崎さんは、井戸から水をくんで広場のたるに運び、自分で飲めない人には水を飲ませた。やけどした被爆者の着ていたものを運んだ記憶もある。

 官舎に戻ったのは、もう暗くなってからだ。被爆者の体液がついていたようで、ヘチマのたわしで手をごしごしと洗った。「ああいう思いはしたくないですね」

 その夜、官舎にいると「アイゴー、アイゴー」という朝鮮の人たちの声が聞こえた。「何だろう」と思って父・鉄一さんに聞くと、「悲しい悲しいって泣いているんだ」と教えてくれた。多くの被爆者は、むしろに寝かされていたが、朝鮮の人たちは、布団を敷いた一室に寝かされていた。濱崎さんは後に、当時の看護婦から、「戦争に負けるから、丁寧に扱え」と鉄一さんが指示したと聞いた。

 濱崎さんは翌日以降も水を与えたという。長崎原爆戦災誌によると、病院には600人ほどが収容され、9月20日ごろまで救護が続いた。諫早市内のほかの救護所が閉鎖されると、その患者も受け入れたという。

 濱崎さんは、9月ごろから下痢をするようになった。父や母から「何か拾って食べた?」と聞かれたが、そんなことはなかった。今は、救護活動による放射線の影響だったのではないかと思っている。

 諫早海軍病院は、45年9月20日ごろまで被爆者の救護が行われた後、進駐軍に接収された。鉄一さんは引き継ぎの業務にあたり、濱崎さん一家は最後まで病院に残ったという。

 10月初め、病院を出る時には、鉄一さんから「アメリカ兵がいっぱいいるから、きょろきょろしないで毅然(きぜん)として歩きなさい」と言われた。濱崎さんは、着物を着て、牛が引く荷車の後を歩いた。

 一家は、鉄一さんの郷里・森山村で暮らした。濱崎さんは、原爆の影響か、体がきつくてごろごろすることもあったという。一方で、「塀の中」と呼ぶ病院内から一転し、自然の中で遊び回る生活は楽しかった。「戦争に負けて本当の暮らしを経験できたのはいいなと思う。こういうのを幸せというとよ」と語った。

 鉄一さんはその後も病院に通い、進駐軍との仕事をしたという。原爆から3年後の48年に亡くなった。

 濱崎さんは55年、夫・均さんと結婚した。被爆者の均さんは故鎌田定夫さん・信子さん夫妻らとともに被爆者の証言集の作成に熱心に取り組んだ。自宅でも編集作業が行われ、濱崎さんも、テープの文字起こしやゲラのチェック、印刷会社への原稿運びなどを手伝った。国語教師として作文教育にも力を入れていた均さん。「ケンカするひまもなかった」と濱崎さんは振り返る。

 濱崎さんは均さんと一緒に特攻隊の基地だった鹿児島・知覧を訪れたこともあった。戦時中暮らしていた諫早海軍病院での情景が思い起こされた。

 出征する男性が、白いマフラーに七つボタンをきちっとしめた正装で官舎にあいさつに来ていた。「お世話になりました」という男性。母は「きちんとお辞儀をしなさい」と濱崎さんら子どもたちに言い、深々と頭を下げた。男性はその後、特攻基地に行ったのかもしれない、と思う。「あの情景を思い出すと涙が出ます。忘れられません」

 均さんの証言収集の活動を裏方として支えた濱崎さんだが、自身の証言は寄せたことがない。「私、長崎にいて直接原爆に遭ってないじゃない」と理由を語る。

 だが、諫早海軍病院で多くの被爆者を目の当たりにした経験から、その記録を残したいという思いはあった。濱崎さんは、均さんと一緒に元軍医や元看護婦を取材した。長崎に派遣され救護にあたった体験や、病院内での治療、解剖の体験などを記事にまとめた。座談会形式の取材には、濱崎さんも参加した。

 取材で濱崎さんが知ったこともある。霊安室がいっぱいになり、遺体を工具置き場前に積み重ねたとも聞いた。「戦争って……」。数秒の沈黙の後、言った。「むごいよね」

 取材の際、病院内の配置図をすらすらと描くと、相手から驚かれた。「子どもで目いっぱい回って遊んでいたから描けた」と語る。記事と濱崎さんの記憶を元にした地図は、76年に発行された「長崎の証言第8集」に収められた。

 濱崎さんは11歳の時、病院での救護で被爆した「3号被爆者」だ。手帳の交付は2004年のことで、5年がかりでようやく認められた。

 もともと原爆といえば、長崎で被爆した人たちのことと思い、体調が悪く、血液関係の数値が悪くても、「原爆のことは頭になかった」という。だが、兄や妹ががんになると、思いが変わった。「怖くなった」

 長崎市や県に申請したが、なかなか認められなかった。遺体の搬送や治療はしていないが、連日、水を与え続けたことは確かな記憶で、目撃した悲惨な情景は目に焼き付いていて、被爆しているに違いないと思った。

 濱崎さんは、書類で当時の状況を説明し、訴えた。「被災者の方に水を飲ませ手渡したことは、だれかに認めてほしいとかほめてほしいとか言うのではありません。子どもであってもそうせざるをえなかった戦時下だったのです」

 夫の均さんは「長崎の証言の会」の代表委員を務めるなどし、ちょうど5年前の12年2月に亡くなった。

 均さんは11年に脳梗塞(こうそく)になった後、リハビリをして、語り部活動も再開していた。自宅に中国人留学生数人を呼んで語ることもあり、同年の暮れには、座って講話できるよう、新しいいすを買ったばかりだった。

 最後の講話となったのは12年1月31日。ホテルで沖縄の中学生に体験を語った。地上戦を経験した沖縄の子どもたちには、長崎のことが伝わると思い、「どんなことがあっても話す」と常々言っていた。講話の翌日、均さんは言った。「あと5年は生きたい」

 明くる日。雪が積もっていた。均さんは朝から「胸が重たい」と訴え、「うっ」と声を上げたのを最後に81歳で亡くなった。

 《倒れんとする麻痺(まひ)の身を立て直し被爆語るを我が余生とす》

 1月に書いたその歌が、均さんの最後の歌となった。「その言葉の通りでした」

 子ども時代に戦争を体験した濱崎さんはシリアでの空爆が報道されると、目を見開いてテレビを見る。その下にいる子どもたちのことを思って「胸がぎゅんぎゅんする」。米軍の爆撃機が頭の上で爆弾を落とし、死ぬかと思って身が縮むような思いをした自分と重なるからだ。「消えないのよ、戦争って。生きているうちは」

 1945年8月9日、母に「戦争ってどんなものか見ておきなさい」と言われて、多くの被爆者がいる諫早海軍病院の広場に出た濱崎さん。「戦争ってどんなものか」の答えは、濱崎さんの語ってくれた話の中にあると思う。病院の患者だった兵隊たちとの、今思えば切ないふれ合い、空襲の恐怖の中で暮らした日々、子どもでも大人を手伝って被爆者に水をあげざるを得なかった惨状。

 自身の体験を語る機会は少なかった濱崎さん。記憶を呼びさましながら、長時間の取材に応じてくれた。最後に言った。「私の80年を話したでしょ。胸が軽くなった気持ち」(岡田将平・35歳)


アサデジより転写


by tomoyoshikatsu | 2017-02-11 11:02 | 反戦