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原爆体験 「 世界の人に聞いてほしい 」

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 七宝作家の田中稔子(としこ)さん(78)=広島市東区=はこの春から、自宅1階の約60平方メートルを交流スペースとして開放し、訪れる人に原爆の体験を語っている。世界を回り、記憶を海外の人にも伝えてきた。活動に込める思いを聴いた。

 1945年8月6日。国民学校へ行こうと、爆心地から2キロほどの牛田町(現・広島市東区)で待ち合わせをしていた。空から飛行機の音が聞こえて見上げたらピカッと光った。気づくと、周囲は土ぼこりで真っ暗。木は倒れ、根がむき出しに。腕や首はやけどで赤くなっていた。

 歩いて自宅に戻ると天井が崩れ落ち、妹(76)はけがをしていた。そんな状況の中でも、「明日がある」。そう感じたことを覚えている。

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 64年に結婚し、2人の子を産んだ。27歳の頃、夫の母が子育ての息抜きに、と稔子さんのために七宝焼の教室を申し込んだ。その後彫金七宝作家の斉藤銈一(けいいち)さんに出会い、夢中になった。

 当時は原爆を語らずに作品をつくっていた。「亡くなった人たちは語ることもできない。そう思うと何も主張できない」と考えたからだ。ただ平和の象徴のハトの模様を入れるなどひそかに平和への思いはこめていた。

 2008年に世界を航海して被爆体験を語る国際交流NGO「ピースボート」の船旅に参加した。ここでも率先して語ることはなく旅程は過ぎていったが、途中で船が故障し、ベネズエラでの語る場に間に合わなくなると飛行機で現地に移動。少人数で語りの場に臨んだ。


 「あなたが体験を話さないと原爆が使われる世の中になる」。ベネズエラの市長にそう言われ、「話すことが自身の責任」と初めて人前で体験を話した。聴衆の真剣な表情を見て「世界の人が自分の語りに反応してくれた。話をして良かった」と感じた。


 その後、人前で体験を話すようになり、七宝作品も変わった。傷ついたハトが傘の下から脱出しようとしている姿や原爆ドームを描いた「アンブレラピース」。平和へのメッセージを直接込めた作品をつくるようになった。

 09年に国連の核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会の開催に合わせて渡米。11年には潘基文(パンギムン)国連事務総長に会い、核廃絶を要請するなど積極的に世界に出向いた。

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 大きなけがや病気はなかったが60歳の頃に白内障になった。以前に骨折した足が痛むようになり海外へ行くのを難しく感じるようになった。そこで七宝焼の作業場を改築し開放することを思いついた。平和な世の中に近づくきっかけになればと「peace交流スペース」と名付けた。

 「友達になった人がいる国と争いごとはしたくないと思う人は多い。そういう関係を築くことができれば」

 週に3日オープンし、今年4月から半年ほどで約700人が訪れた。海外で知り合った人が友人を連れてくることも多く、訪問者のうち約1割は外国人。日本語や英語、様々な言語が飛び交う中、お茶を飲み、話をする。求められれば自身の体験も語る。聞いて涙する人や「周囲の人に伝えます」と言う人もいて、自分の体験が広がっていくと感じてうれしくなる。

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 「被爆者が語ることで核兵器を使わない世界をつくってきたと思う。伝えることで核廃絶につなげていきたい」。そんな思いで自宅のドアを開ける。

アサデジより!!!


by tomoyoshikatsu | 2016-12-17 00:22 | 反核