宮沢さんと沖縄民謡との出会いは、デビュー間もない90年ごろ。レコード会社の友人から、沖縄土産のカセットテープをもらった。「三線(さんしん)の音の感触が気持ちよくて、昼も夜も、寝ている間も聴き続けるほどほれ込んだ」と振り返る。
「本土の民謡というと労働歌を思い浮かべるが、沖縄の民謡は恋の歌も多い。昔の庶民が見た風景まで思い浮かんでくる気がした」
ぜひ生の音を、と現地を訪問した91年、ひめゆり学徒隊で生き残った女性から、沖縄戦での集団自決について聞かされ衝撃を受けた。「自分の無知に怒りがこみ上げてきた」。突き動かされるように書いたのが「島唄」だった。「このまま永遠(とわ)に夕凪(ゆうなぎ)を」という歌詞に、平和の願いを込めた。
沖縄との縁を結んでくれた民謡。その録音を始めたのは、2011年の東日本大震災がきっかけという。東北の各地で大切に守られてきた伝統芸能が、突然の災厄で存続の危機に陥ったと聞いた。「大好きな沖縄民謡も、あって当たり前ではないと気づかされた」
翌年、三線の伝説的な名手、故登川誠仁(のぼりかわせいじん)さんのもとを訪れ、演奏を録音させてほしいと頼んだ。
「全盛期を過ぎても、工工四(くんくんしー、三線の楽譜)には記されていないこぶし、息づかい、間合いの豊かさがあった。人生の経験に裏打ちされたもので、技術的に教えられるものではない。未来の唄者たちに、直接聴かせるべきだと思った」
■「琉球音階使うな」と批判も
沖縄本島をはじめ、宮古島、八重山諸島などの唄者たちに「後世に残したい1曲」を歌ってもらい録音する。そんな構想が生まれたが、「協力をお願いする前は不安もあった」という。
不安の理由は「島唄」がヒットした当時、沖縄の一部から受けた反発の記憶だった。県外の人間が三線と琉球音階を使ってくれるなという批判さえ聞こえてきた。「軽い気持ちと映ったのかもしれない。歌い続けて、沖縄と一緒に歩む姿を示すしかなかった」。以来20年あまり、ヨーロッパや南米など世界中のライブで披露し続け、十数カ国でカバーされるまでになった。
合同民謡協会共同代表で唄者の大工哲弘(だいくてつひろ)さん(68)は11年、自身のアルゼンチン公演で聴衆たちから「島唄を歌ってほしい」とせがまれたのが忘れられないという。「平和を願う沖縄の心を世界に届けてくれた。その彼が民謡を録音するなら、協力しない手はない」
沖縄民謡界の生き字引と言われる地元のレコード会社「キャンパス」社長の備瀬善勝(びせよしかつ)さん(77)も協力を呼びかけた一人。親しかったルポライターの故竹中労さんが、故嘉手苅林昌(かでかるりんしょう)さんらのレコードをプロデュースして、本土に熱心に紹介したことを思い出したという。「沖縄民謡にほれ込んで後世に残そうとする人に、県内出身も県外出身もない」
地元沖縄の協力を得た宮沢さんは沖縄市のスタジオを拠点に、時に離島にも出向き録音を続けてきた。今年、歌手活動を休止したのも「人生で残された時間を考えて、いまは沖縄民謡のことを優先したかった」。
これまで採録した245曲を、17枚組みのCDボックス「沖縄 宮古 八重山民謡大全集」にまとめる予定で、編集を続けている。「ただ、販売すれば相当高価になり、限られた人しか聴けなくなる心配があった」
そのため、一口2万5千円で制作資金を募るファンド「唄方プロジェクト」をこの夏に立ち上げた。今月、目標の750セットをつくる資金が集まり、沖縄県内の学校や図書館など約500カ所に寄贈する見通しがついたという。残る約200セットは、ファンドの出資者たちに贈る。
CDボックスの完成は11月の見込み。沖縄系移民とその子孫たちが沖縄に集う「世界のウチナーンチュ大会」(今月27日から開催)では、海外の沖縄県人会に完成品は渡せないものの、まずは目録を手渡すという。
「沖縄で世界で、民謡を習う人たちの『音の教科書』になればいい。この録音活動で、沖縄の懐にやっと飛び込めた気がする」(上原佳久)
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〈沖縄民謡〉 もともと神に捧げる儀式で歌われたのがルーツとされる。琉球音階と呼ばれる「ド・ミ・ファ・ソ・シ」の5音でつくられたものが多い。琉球王国時代には、庶民の男女が出会う場「毛遊(もうあし)び」などで歌われた。歌詞の題材は恋のほか、日々の労働、第2次大戦で荒廃した郷土を歌ったものなど幅広い。現在も地元ラジオ局主催のコンテストが開かれ、新曲も毎年生まれている。
それでは 【 島唄 】