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水俣病 、、、 1・2・3 !

「 あの頃 “ 魚 ” を食べてなければ 」

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終わらない水俣病 胎児性患者は今

 不知火(しらぬい)海を望む高台にある水俣病患者の療養施設「明水園」(熊本県水俣市)。小崎達純(たつずみ)さん(57)は約6年前から利用を始め、月の半分以上をここで暮らす。

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全文


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『 息子をお願いします 』

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終わらない水俣病 胎児性患者は今

 『 わが学舎の窓辺に近く あけくれまわるベルトのひびき 』

 熊本県水俣市の市立水俣第二小は、水俣病を起こしたチッソの工場( 現JNC水俣製造所 )の真向かいにある。校歌には工場の様子が描かれ、チッソ関連社員の子どもも多く通う。

 7月、校歌を歌う児童の声が、市立水俣病資料館の講話室に響いた。資料館で語り部を務める胎児性水俣病患者の永本賢二さん(57)は、母校の後輩の姿に目を細めた。校歌は講話のお礼だった。

 永本さんの父もチッソで働いていた。加害と被害が居合わせる水俣。人々は幾重にも分断され対立した。

 講話は少年時代の話を中心に進んだ。5歳で歩けるようになったが、小学校で歩き方をからかわれた。文房具店で「補償金で買えていいね」と言われた。心を慰めたのは、家から見えたチッソ専用港のクレーン。物言わぬ、たくましい姿にいつも話しかけた。

 語り部を続けて15年目。「チッソを恨んだことはありません」と繰り返してきた。「母校の子たちに、それぞれの父親を嫌いになってほしくない」と思うからだ。ただ、本当は「言葉通りじゃない。チッソには、いろんな気持ちが混ざり合っている」と漏らす。

 2011年3月、チッソは水俣病の補償責任を残し、営利事業を子会社JNCに切り離した。チッソの清算・消滅を可能にする流れの一つで、永本さんは反対していた。

 「水俣病から逃げる会社であってほしくない。しっかり患者に向き合って、必要な補償をしてほしい。今も、チッソは市民の誇りなんだから」

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「お母さんが大変だから」と施設へ

 水俣市中心部の住宅街にあるケアホーム「おるげ・のあ」。胎児性患者の金子雄二さん(61)は、ここで患者4人と暮らす。好きな新潟の酒をコップに半分入れ、晩酌を楽しむ。ヘッドレスト付き車椅子に座ったまま、ストローでゆっくりと。水俣病による障害は重く、一つの言葉も一息に言えない。40代で歩けなくなった。

 施設は、ついのすみかを求める患者と家族らの願いを受けて14年春に完成。「(自宅で)一緒だと、お母さんが大変」。そう考えて入居した。

 父はチッソの取引先で、他の身内はチッソで働いていた。母のスミ子さんが三男の雄二さんを身ごもっていた1955年5月、父は劇症型の水俣病で全身をけいれんさせ、24歳で死亡した。次兄は生後1カ月足らずで亡くなり、母と長兄は患者と認定された。

 生後、魚を食べる前から症状のあった雄二さんに、水俣病を研究する故原田正純医師が出会い、胎児性水俣病の存在を立証した。

 病を背負い、幼子を抱えてスミ子さんは懸命に働いた。ただ、その体験は長く心の底に封印してきた。患者家族は偏見や差別にさらされ、「患者は隠せ」「話にするな」という雰囲気があった。チッソの企業城下町。50年代、市の税収の半分はチッソからだった。

 水俣病資料館で、一家もろとも水俣病に巻き込まれた苦難を語り始めたのは02年。「私のような苦しみを、決して味わってもらいたくない」と訴え続けた。

 4年前に一度だけ、原田医師に恨み言を漏らした。「本当に情けない思いをして。悔しかった」。チッソの廃水が水俣病の原因と知らず、家族で魚介類を食べ続けたことだ。

 老いてなお雄二さんを介護したスミ子さんは今年4月、心不全で84歳で逝った。臨終の床で「息子をお願いします」と周囲に言づてした。最期の日々を、雄二さんは母のそばで過ごした。

 父は写真でしか知らないが、生き写しのように顔形が似ている。「(自分は)お父さんの『かわり』」。父の命の分まで生きた、という。そして、身をよじらせ、涙をこぼして母への思いを口にした。「産んでくれて、ありがとう」

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終わらない水俣病 胎児性患者は今

 『杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。

 何でもききわけますと。ききわけはでくるが、自分が語るちゅうこたできまっせん。』

 水俣病を描き、広く世に伝えた作家石牟礼道子さん(89)の「苦海浄土」(1969年)の一節だ。登場する少年「江津野杢太郎(もくたろう)」は、熊本県水俣市の胎児性患者、半永一光さん(60)がモデルになっている。

 「一人でたたみの上にはって、もぞもぞしていました。あまり動けませんから。上がり框(がまち)に腰掛けて、物見して」。石牟礼さんは往時を振り返る。

 半永さんは55年、水俣市で生まれた。漁師の家族は水俣病の発生で魚が売れずに困窮。半永さんは生後何年たっても首が据わらなかった。歩けず、言葉もほとんどしゃべれない。

 幼い頃に家族から離れ、病院で過ごした。その姿を撮影し、水俣病を伝えようと訪ねてくる写真家を半永さんは拒まなかった。

 香川出身で水俣に移り住んだ塩田武史さん(故人)もその一人だった。声を上げる。うなずく。首を横に振る。指さす。口をいっぱいに開けて笑う――。半永さんは、感情豊かに意思を伝えた。

 72年夏、塩田さんのカメラに興味を示し、レンズを向けた。ピントの合った塩田さんと妻弘美さん(69)が写る1枚。被写体だった少年は、撮影者となった。

 家族に買い与えられたカメラで水俣の風物や出会った人々を撮った。体の傾きや車椅子からの低い目線が、そのまま構図として刻まれた。91年には念願の写真展を市内で開催。97年には写真集「ふれあい・撮るぞ」も自費出版した。

 「半永君の心や伝えたいことが写真に表れ、温かいまなざしを感じる。カメラは言葉の代わりになっている」と弘美さんは話す。

 体は衰え、今は両手でカメラを構えられない。車椅子に金属製の支柱で小型のデジタルカメラを固定し、反り返った指先でカメラのアングルを決めてシャッターを切る。表現するその姿も、水俣病を伝えている。

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「水俣病から逃げたいなぁと思ってた」

 「チッソの廃水で、あたしたちは悪くないのに、病気になった。とても悔しいです」「絶対に、同じようなことを、繰り返してほしくありません」


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 9月10日、タイ・バンコクの大学で水俣病の公式確認60年を機に開かれた集会。胎児性患者の坂本しのぶさん(60)は、環境団体やタイの公害被害者ら約200人を前に、こわばった両手に力を込めて訴えた。長旅の疲れも見せず、マスコミの取材に次々応じた。

 56年7月、水俣市の漁村に生まれた。3歳上の姉はその少し前に発症し、4歳で命を終えた。しのぶさんは首が据わらず、6歳になっても歩けなかった。

 胎児性患者を象徴する存在として、被害者の裁判を応援し、小学校で子どもたちに経験を語ってきた。ベトナム戦争の枯れ葉剤被害者の支援でベトナムも訪れた。ただ、子どもの頃は違った。「水俣病から逃げたいなぁと思ってたの」

 中学3年だった72年。水俣病の実態を伝えるため、国連人間環境会議が開かれたスウェーデン・ストックホルムを訪ねた。飛行機での長旅が可能だったことなどから支援団体に指名された。渡航前は泣いて嫌がったが、現地で人々の関心と温かさに触れた。「あたしとお母さんの話をちゃんと聞いてくれた」。この経験で、自らの役割を意識するようになった。

 一緒に訪問した母フジエさん(91)は「自分も出らんばならんと思ったじゃろ。何でも頑張らんばいかんと、自分で判断して行くごとなった」と振り返る。

 今も逃げたい気持ちはある。歩く力が衰え、外出に車椅子を使うことが増えた。それでも、「水俣病から逃げられないなら、頑張ろうと思ったの。逃げんで生きていかんば駄目だな、って」。

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by tomoyoshikatsu | 2016-10-25 00:46 | 呟き