かき氷、ところてん、スイカ……。「 記憶の食 夏休みの味 」にたくさんの投稿をいただきました。味とともに家族のやさしさを重ね合わせた投稿が目立ちました。
■一度きり、母のかき氷
借家の2畳間にはいつも、綿ぼこりが舞っていた。機械に向き合い、母は黙々と綿花を紡いで糸にしていく。暑い日も寒い日も……。
愛知県江南市の篠田洋子さん(75)の父親は昭和19(1944)年8月、36歳の若さで中国大陸で戦病死した。残された母のとく毛(も)さん、洋子さんら3人の子どもは、疎開先の群馬県太田市で暮らし始めた。家計を支えたのは母の内職。「 綿ぼこりでいっぱいで息をするのも嫌でした 」と洋子さん。
あるとき、家にかき氷器と大きな氷が届いた。当時6歳だった洋子さんと8歳の姉は、手をたたいて大喜びした。自転車で売りに来るアイスキャンディーさえ買ってもらえなかったからだ。姉と2人、茶わんとスプーンを持って、母がかき氷を作ってくれるのを待った。
しかし、いつまでたってもかき氷をよそってくれなかった。「 これは売り物だからね。我慢してね 」。母は申し訳なさそうに2人に言った。
玄関先には「 かき氷 」の旗がはためく。近所の子どもが「 かき氷ちょうだい 」と買いに来る。すると、母は台所の床下でおがくずの中に保存してあった氷を取り出し、かき氷器にセットする。シャッシャッと氷を削る音がして、脚のついたガラスの器に雪のような山ができる。そこに赤いイチゴシロップをかければできあがり。ニコニコしながらかき氷を持ち帰る子どもを姉と2人、うらやましそうに見つめる日が続いた。
そんなあるとき、母が姉と洋子さんのかき氷を作ってくれた。「 いつも我慢させてごめんね 」。「 お母さん、ありがとう! 」。2人で夢中で食べた。氷の冷たさで頭がキーンとする。シロップの甘さがじんわり舌に染みた。
かき氷を食べさせてくれたのは1度きりだった。でも、夏の暑い日の母のやさしい気持ちは今でも忘れない。(浅野真)
■スイカ半分「露天掘り」
夏といえばスイカ。スイカといえば切り分けてがぶりと食べるもの。でも、福岡市の中川原(なかがわら)進一郎さん(69)は、小学生の夏休みに一風変わったスイカの食べ方をした。
うだるような暑い夏の午後。母に呼ばれて進一郎さんと父が居間に行くと、畳の上には広げた新聞紙とスプーン三つ。そこへ母が持ってきたのは、半分に切ったスイカ。これを3人で囲んで食べるというのだ。「 意表を突いた提案に、父も私も口があんぐりでした 」
まずは父が、スプーンで断面を三つに区分けしてそれぞれの「 陣地 」を示す。そして三者三様のペースで陣地を攻めていく。中川原さんは、父の「 ゆっくり食え 」との教え通りちびちびと口にする。一方、母はダイナミックにスプーンで突きまくっていく。
しばらくして父が「 小休止! 」と号令。進一郎さんがトイレから戻ってくると、全員の「 露天掘り 」にかち割り氷が入れてある。それに、なにやら甘いにおい。よく見ると、母の陣地だけ赤が濃い。大の酒好きの母が、自らの露天掘りに「 赤玉ポートワイン 」を注いでいたのだ。
進一郎さんも興味本位で「 僕にも赤玉入れて 」。「 じゃ、少しね 」と母。口にすると、ワインの渋み、スイカの甘み、氷の冷たさが一緒になって、極上のおいしさだった。
エアコンなんてない時代。風鈴の音を聞きながら、親子3人で涼を楽しむぜいたくな時間。最後は父の決めぜりふ。「 うまかもんは、小人数(こにんずう)たい! 」。進一郎さんもこのときばかりは、一人っ子であることを幸せに感じた。
夏を迎えるたび、あの日のことがよみがえる。「 2人とも天国で、早くあいつもスイカを食いにこんかのう、なんて言っているかもしれませんね 」(広江俊輔)
■中学生の味は…
静岡県三島市の日本大学三島中学1年B組の生徒29人が書いた「 記憶の食 」が朝日新聞に送られてきました。「 国語の授業で、200字作文を書いてもらいました 」と同校の瀧上雅彦先生。
「 花火大会の日におばあちゃんの家で食べるフルーツポンチが大好きです 」「 夏祭りの屋台で売っていたりんごあめ 」「 キンキンに冷えたそうめんを食べるときは、とても気持ちがよいです 」……。いまどきの中学生の「 夏休みの味 」もバラエティーに富んでいます。