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新 ポリティカ、、、、、

 なんともみっともない姿をさらした舛添要一東京都知事がようやく辞任した。

 海外出張が豪華すぎるという批判には、東京の知事ともあろうものがファーストクラス以外の席で飛行機に乗れますか、二流のビジネスホテルに泊まれますかなんて居丈高だったし、別荘通いの公用車使用は「 公用車は動く知事室 」だなんてしゃれた反論をしていた。正月の家族旅行のホテルにもほんとかどうか政治の相談相手が来たからホテル代は政治資金で払ったんだよ、などと苦しい言い訳をしていたが、運が尽きた。


 ごくそのへんの都民だって、こりゃひどい、こりゃもたないととっくにわかっていたのに、権力の座というのは舛添さんほどの頭のいい人も狂わせるのか、大騒ぎして延命に粘ったけれどもそりゃむりですよ。しかし、テレビの朝のワイドショーの「 マスゾエばっかり 」の過熱報道にも、うんざり。マスゾエ、マスゾエとうるさかった。

 一時代前の政治記者には、このごろの政治は、なんだか大騒ぎしながら、結局は何も得るところもなく流れ去っていくようで、こころ落ち着かない。

「 つつましい小国として生きる 」


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 いまから10年ほど前に亡くなった政治家に、かつて中曽根康弘内閣の官房長官をしていた藤波孝生という人がいた。この人は伊勢神宮前のまんじゅう屋の生まれ、家業を継いでいたが、地元の青年たちに推されて政治の道に入った。

 控へめに 生くる幸せ 根深汁

 藤波さんは俳句を嗜んだ。この句は、彼の生き方を象徴した代表句である。日米同盟をうたいあげて万事派手なパフォーマンスの中曽根首相と違って、藤波さんは「 わが国はほんとはつつましい小国として生きるのが幸せだと思うんですが 」と語っていた。

 わたしも知己を得て、わたしの行きつけの銀座の小料理屋、俳人の鈴木真砂女さんの営む「 卯波 」にお誘いした。

 「 このごろの政治、どうですか 」と聞くと藤波さんは「 国亡ぶという気がしますな 」と答えた。藤波さんはそれを

 国亡ぶ ことには触れず 初秋刀魚

 という句にされた。

 真砂女さんは96歳で亡くなり、「 卯波 」も再開発ビル計画に巻き込まれて8年前に店を閉じた。

 このごろの騒々しい政治、舛添さんだけではない、国を預かる安倍晋三首相の政治もなんだかあわただしい。もっと落ち着いた政治、藤波さんはそうだったなあと思い出したのだが、しかし、その藤波さんにして、晩年、リクルート事件にかかわって一審無罪ながら二審、最高裁では有罪になってしまった。わたしたち彼を知る政治記者は事件を信じたくなかったけれど、政治という世界の底知れぬ暗闇を思ったりもしたのだった。

「 人しれず微笑まん 」

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 さて、このところ、わたしは2度ほど国会議事堂にでかけた。といっても参院選挙突入でガランとしている議事堂の中ではなく、塀の外である。

 6月15日、議事堂の南通用門に行く。そこで樺美智子さんを偲ぶ会が催された。

 あの、いわゆる「 60年安保闘争 」のさなか、1960年6月15日、当時の岸信介首相の強行する日米安保条約改定に反対する学生たちが国会構内に南門から突入、東大生だった22歳の樺美智子さんは警官隊の排除、その混乱のなかで死んだ。以来、毎年6月15日、南門にささやかな台が置かれ、樺さんの写真が飾られ、全学連の旗が添えられ、追悼の催しを続けている。今年も、当時、一緒に国会構内になだれ込んでいた学生運動の40人ほどの面々、それぞれ花を手向け、幹事役の三上治さんから次々と思い出を語った。

 大きな政治の変わり目のなかで若い命を失った樺さんのこと、いまは高齢となった同世代の人々は忘れられないのだろう、5年ほど前には、樺さんの遺稿集「 人しれず微笑まん 」も復刻出版された。そこに樺さんの詩、「 最後に 」が収録されている。

 誰かが私を笑っている

 こっちでも向うでも

 私をあざ笑っている

 でもかまわないさ

 私は自分の道を行く

 という言葉で始まる4連の詩、樺さんは「 でも私はいつまでも笑わないだろう 」「 それでいいのだ 」と展開して、最後の連でこう結ぶ。

 ただ許されるものなら

 最後に

 人知れず ほほえみたいものだ

 自分の生きている時代の苦悩をともにしながら、しかし声高でなく謙虚に生きていきたいという青春の思いが伝わってくる。

 社民党の衆院議員、沖縄県選出の照屋寛徳さんが樺さん追悼の会に来ていた。照屋さんは当時は中学生、貧乏な農家でこども9人の育ちだったから家にテレビも新聞もなく、担任の先生から樺さんの死を聞いた。照屋さんが語った。

 わたしたちの沖縄は、憲法よりも日米安保が優先支配しています。わたしは沖縄県うるま市に住んでいます。同じうるま市に住む20歳の女性が、さる4月28日、元米海兵隊員で軍属の非道な犯罪で殺されました。樺さんの無念とこの女性の無念、思いを重ねています 」

 照屋さんはこの女性の告別式にも参列した。

そうか、樺さん22歳の死と沖縄の20歳女性の死は、照屋さんの心のなかではつながっているんだなあ。確かに2人の女性の死は「 日米安保体制 」がもたらした悲しき犠牲であるに違いない。

「 第二の加害者は誰ですか 」

 連れ去られ、殺され、山中に捨てられた、この女性殺害事件、6月19日、沖縄県那覇市で、これに抗議する県民大会が開かれた。主催者発表で6万5千人が集まったそうである。同じうるま市に住む女子学生玉城愛さんが同世代を代表してスピーチした。喪服姿だった。玉城さんは「 被害者は私や、私の友人だったかもしれない 」と思いつつ発言した。

 「 安倍晋三さん、本土に住むみなさん、今回の事件の第二の加害者は誰ですか。あなたたちです。しっかり沖縄に向き合っていただけませんか 」

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 国土の0.6%の沖縄に、在日米軍基地の74%を押し付けている現実、それは東京の政府、そしてひとごとに思っている本土の人々ではないかという問題提起である。

 海兵隊撤退、辺野古基地反対、日米地位協定の抜本的改定を盛り込んだ大会の決議案には賛成できないとして、自民党公明党は、大会には不参加だった。

 さて、その「 東京 」はどう受け止めるべきか。沖縄の大会に連携して、同じ時刻に国会議事堂前で抗議集会があった。わたしも出かけた。日曜日だったから多かったのか、主催者発表で参加者1万人、やはりシルバーが多かったかな、みんなで黙祷した。

 いろんな人のあいさつには、沖縄への自責の気持ちが表れていた。しかし、いったいどうすればいいんだ! 日米安保という巨大な体制を壊すことは、いうまでもなく簡単なことではない。怒りとともに、そんな苦しい思いもにじんでいた。

 突然、スピーカーの音が変調した。「 沖縄県知事翁長雄志です 」。いま沖縄の大会で壇上に立った翁長さんのあいさつを東京に同時中継するとのことである。

 「 あなたを守ってあげられなくてごめんなさい。痛恨の極みです 」

 翁長さんの声はきりっとして力強い。拍手がわく。そして国会前集会は、昔よく聞いた「沖縄を返せ」をみんなで歌って終わった。

 折から始まる参院選。その最初の党首討論をテレビで見たけれども、アベノミクスの成否についての応酬が多く、沖縄問題への取り組みはあまり語られていない。

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 56年前の樺美智子さんの死、そして沖縄の女性の死、忘れてはいけない。その死のうえに、日本の戦後史がある。そのことを忘れてはいけない。

 その夜のNHKニュースは、沖縄の集会の模様をきちんと報じていた。翌朝、6月20日付の新聞各紙( 東京最終版 )を見た。きのうの沖縄をどう書いているかな。

 朝日新聞は1面トップ、社会面や社説、写真も何枚も使って大きく、くわしく報道した。さて、読売新聞は? とページをめくっても、あれれ、どこにも載っていないぞ! まさか。よくよく見なおしてみたら、あったあった、社会面にベタ(1段見出し)でわずか30行の記事を見つけた。(早野透=元朝日新聞コラムニスト・桜美林大学名誉教授)


アサデジより!!!


by tomoyoshikatsu | 2016-06-26 02:20 | 呟き