笹村球吾さんは薬剤師として晩年まで勤め、1985年に92歳で亡くなった。戦後の自宅は被爆時に暮らしていた薬局近く、長崎市平野町にあった。爆心地に近い場所で、自宅前には一本柱鳥居や国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館を案内する看板がある。
私の自宅もそこから近い。普段、通る道沿いにあり、その家の存在は知っていた。原爆で妻子4人を失った球吾さんの手記を読み、球吾さんについて詳しく知りたいと思っている時、偶然、この家が球吾さんのものだったと知り、身近に感じた。それがきっかけで、球吾さんの孫の明美さんを訪ね、本格的に一家を追う取材が始まった。
その家があった土地は現在、更地になっている。2014年11月に解体作業が始まったのだ。解体前の同月初旬、明美さんとともに中に入り、遺品に目を通させて頂いた。これまでの連載で紹介した一家の遺品は、この時に見つけたものや、明美さんの元にあったものだ。( 全文 )
人気作家の重松清さん(52)と広島、長崎、福島の大学生、被爆者が対話するイベントが25日、広島市中区の広島国際会議場であった。被爆体験の継承などをテーマに意見を交わし、約200人が耳を傾けた。
重松さんら著名人や大学生らが核のない世界への思いを寄せた本「No Nukes ヒロシマ ナガサキ フクシマ」(A5判128ページ、税別1500円)の刊行を記念し、講談社が開いた。
本に登場する広島市安佐南区の李鐘根(イジョングン)さん(86)は、爆心地から約1・9キロの荒神橋付近で被爆。皮膚の露出した部分はすべてやけどし、泣きながら手当てしてくれた母親の姿が忘れられないとし「核と人間は共存できない」と訴えた。編集に携わり、文章も寄せた広島大4年の福岡奈織さん(22)は「被爆者ごとに違う心の傷も継承するべきだと思った」と語った。
残り:316文字/本文:682文字